2019年4月7日説教要旨 マタイによる福音書25:31〜46
【聖書箇所】
【説教音声ファイル】
「右と左」~裁きの時~
梅木 光男
いよいよ2019年度が始まりました。本日はマタイ福音書25章のシリーズ説教の最後の部分から「天の国」に入るための裁きについて取り上げました。
ここの箇所は主イエスの総括的な締めくくりに当たるたとえで、十字架にかかる直前の心境が述べられており、特に心して聞く御言葉です。最後の審判のとき人々は右と左に分けられると主イエスは語られます。ちょうど「羊」と「やぎ」が区分されるように。
すると右側にいる人々は王様から祝福とその理由が高らかに宣言されるのです。しかし彼らにはその理由に心当たりがありません。主に対して「いつ飢えておられたとき食べ物を与え、喉が渇いていたとき飲ませ、旅のとき宿を貸し、裸のとき着物を貸し、病気のときや牢にいたとき訪問したのか」と尋ねます。そこで王は「最も小さな人の一人にしたのは、私にしてくれたこと」と答えられたのです。
小さなわざ、それも忘れてしまうようなわざを主イエスはとても大きな問題として重視されているのです。
それから王は左側にいる人たちに厳しい言葉を投げかけます。それは先ほどとは正反対の事柄です。勿論問いかける内容は同じで、左側の人々にとって当然心当たりがないばかりか、むしろこんな小さなことは日常的に行っていると自負し、心外だとも言わんばかりです。自分は神の助けがなくても生きていけるという思い込みや傲慢こそが「罪」なのです。神様は我々の行動や心の動き、信仰、知識などすべてご存知です。しかもかつて主イエスが律法学者の質問のお答えになった二つの戒めがホントに実践しているか最後に問われているのです。
我々の人生はキリストと出会うために愛から愛へと彷徨巡礼の旅そのものです。この旅を終えるときかのアルタバンのように40節の御言葉が主から聞かされたいと願っています。