【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年1月5日説教要旨
聖書箇所 伝道の書1章9~10節、コリント人への第二の手紙 5章17節
いつまでも変わらないもの
瀬戸 毅義
室町時代の禅僧一休(1394~1481)は、京都大徳寺の住職でした。反骨精神があり毒舌家でした。「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」彼は京都の町をこの歌を詠んで歩いたそうです。「嫌な奴、正月の日に・・・」と京の人々も苦々しく思ったでしょう。しかしこの歌は人生の本質を捉えています「何がめでたい?元旦は冥土への一里塚だ!」。「冥土」とは、死んだ後の世界。一里塚は、街道を旅する人の目印として一里(約4キロメートル)毎に土を盛り設置した塚のこと。〇〇まで何キロと書かれた距離を示す里程標。
旧約聖書の伝道の書(新共同訳/コヘレトの言葉)に次の言葉があります。
「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか」1:2,3)と。『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである(1:10)。
2020年となりましたが、2019年と毎日は変わりません。この世の有様と人の人生はまさに伝道の書にある通りです。伝道の書は人が至高善, 最高善 (summum bonum、supreme good)とは何かを求めた書なのです。皆さんも一度読んでごらんなさい。天が下に絶対的に新しいというものはない。みな古いことの繰り返しである、と教えます。伝道の書は人生の半面だけであり、真の人生はイエス・キリストを知ることから始まります。イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ6:35)「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。」(詩編27:10)このように神に頼る人生は、伝道の書がいう人生とは違います。
伝道の書の著者は人間の最高善を求めて様々なことをやってみました。しかし「空」であった」というのです。伝道の書は失敗の人生、挫折の記録とでもいえましょう。成功の記録ではありません。それですから、伝道の書はイエスキリストのことを記した新約聖書と併せて共に読まねばなりません。
ギリシャ語には「新しさ」を意味する言葉が二つあります。一つはネオスです。もう一つはカイノスです。ネオスというのは英語のニュースの語源となったことばです。ニュースは東西南北の頭文字というのは大ウソ。ネオスは、直ぐに古くなる、変わりやすい、「一時的な新しさ」を示す言葉です。カイノスは「いつまでも変わらない新しさ」を示す言葉です。コリント第二、5章17節が記すのはこの「新しさ」です。「だから、キリストと結びついている者は、新しい創造物である。古いものは消え失せて、いまここに、新しくなってしまっている!」(塚本訳)。
クリスチャンはキリストと結びついています。いつまでもかわらない新しさをいただいています。時や時代が変わってもいつまでも変わらないあたらしさ(カイノス)です。
聖書はいいます。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(へブル書13:8)御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。(ヨハネ第1 5:12、14)
イエス・キリストこそ人が求むべき至高善, 最高善 (summum bonum supreme good)です。2020年は私たちに平等に用意されています。どのようにこの一年を過ごされますか。
先ごろアフガニスタンで悲劇の死を遂げ天に召された中村哲医師に固い信念がありました。それは「誰もが行きたがらぬところへ行け、誰もがやりたがらぬことを為せ」というものでした(西日本新聞、2020年1月1日による)中村医師は西南学院中学を卒業後、九州大学の医学部に入学しました。中村哲医師の信念となったその言葉は『後世への最大遺物』という本にあります。その部分を以下に引用しましょう。
それが世界を感化するの勢力を持つにいたった原因は、その学校にはエライ非常な女がおった。その人は立派な物理学の機械に優(まさ)って、立派な天文台に優って、あるいは立派な学者に優って、価値のある魂を持っておったメリー・ライオン(註:Mary Mason Lyon 1797-1849。アメリカの女子教育の先駆者。)という女でありました。その生涯をことごとく述べることは今ここではできませぬが、この女史が自分の女生徒に遺言した言葉はわれわれのなかの婦女を励まさねばならぬ、また男子をも励まさねばならぬものである。すなわち私はその女の生涯をたびたび考えてみますに、実に日本の武士のような生涯であります。彼女は実に義侠心に充(み)ち満(み)ちておった女であります。彼女は何というたかというに、彼女の女生徒にこういうた。
他の人の行くことを嫌うところへ行け。
他の人の嫌がることをなせ
これがマウント・ホリヨーク・セミナリーの立った土台石であります。これが世界を感化した力ではないかと思います。他の人の嫌がることをなし、他の人の嫌がるところへ行くという精神であります。
(内村鑑三『後世への最大遺物 デンマルク国の話』岩波文庫、1999年、64頁)
「青空文庫」(www.aozora.gr.jp)でも読むことができます。
これが中村哲医師を励ました言葉です。現代の私たちはどうでしょうか。3Kのような仕事はゴメンだ。少しでも給料が高い仕事に就きたい・・・となるのではないでしょうか。
中村哲医師はクリスチャンでした。西南中学のチャペルで数回お話されました。飾らない訥々とした先生でした。自分から「クリスチャン」であるとは口にされなかったと記憶します。