2018年1月28日説教要旨「いやされたナアマン将軍」列王記(下)5:1~14
私は北陸の金沢にうまれました。金沢は浄土真宗のさかんなところです。大抵の家には仏壇があり、そこに「御文(おふみ)」が備えられています。私の家にもありました。その中の言葉にも、学ぶべきものがあるのです。例えば次の言葉です。
人生は短くはかないもので、たとえ栄華をほこっても、盛者必衰会者定離のならいで久しく続くものではなく、しかも老少不定なのですから、人の世はあてにはなりません。ですから私たちは他力の信心を得て、浄土往生を願うべきなのです。その信心を得るには、智慧も学識もいらず、富貴にも貧窮にも関せず、善人でも悪人でも男でも女でも、もろもろの雑業(ぞうぎょう・自力のはからい)を捨てて、正業(しょうぎょう)に帰することが大切です。正業に帰するというのは、別に何ということもなく、一心一向に阿弥陀如来をたのみに思うだけのことです。み仏はこのように信じるものを光明の中におさめとって、命が終わればかならず浄土に生まれさせてくださるのです。(蓮如上人 『口語訳 御文章』 二帖第七通)
単純・素直な信仰の姿勢を教えられるように思います。
同じように人の霊魂の救いは、儀式や礼典や経典の研究や、または修養鍛練等によって得られるものではありません。ただイエスを信じる単純な信仰によるのです。「悔い改めて福音を信ぜよ」(マル1:15)、また「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使16:31)とありますように、必要なのは真実な悔い改めと単純な信仰なのです。「信仰」は、信頼、頼ること、神への完全な信頼という意味です。
ナアマンは信仰を複雑に考えていました。「行って身を七たびヨルダンで洗えというのか。ヨルダン川だと?ダマスコの川アバナやパルパルは、イスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはここで身を洗って清まることができるだろうか。」と言い、身をめぐらして立ち去ろうとしました。わたくしたちは、昔のナアマンと同じく、勝手に救いの条件を自分で考えて、神が備えられた大道を歩みそこない、せっかくの恵みを受け損じるようなことかあってはなりません。
乃慢將軍 乃慢(ナアマン)将軍(しょうぐん)
七回其體浴河中 七回(ななたび) 其(そ)の体(からだ)を河中(かちゅう)に浴(よく)す
癩疾欲冶心力充 癩疾(らいしつ)治さん(なおさん)と欲し(ほっし) 心力(しんりょく) 充(み)つ
神聖從言俄有効 神聖(しんせい)の言(げん)に従(したが)えば 俄(にわか)に効(こう)有(あ)り
將軍快癒感無窮 将軍(しょうぐん) 快癒(かいゆ)し 感(かん) 窮(きわ)まり無(な)し (瀬戸毅義)