【説教音声ファイル】
2021年1月10日説教要旨
しきりに求めなさい
竹田 浩
新年の初めに当たりこの一年を勝利する為の聖書のみ言葉を語りたいと思います。
1 祈り求めなさい
有名な神学者バルトによりますと、祈り求める事の必要性について、以下の様に述べられています。
「祈り求めなさいと言う神様の戒めは、我々、貧しい人間の求めを永遠の初めからして、その摂理と意志の中に取り上げていたもう事を知る。即ち神は時間の中における我々の求めを勘定に入れて、それを歴史の中に実現させたもうのである。契約の主なる神は我々を抜きにしての神ではありたまわない。」
このバルトの言葉によると人間の求めを通して神の歴史は進行していくものである事が分かる。もしわれわれが求めなければ、我々の上に神様のみ心は実現しない事になる。それほどに人間の求めは神様の前に重要なものである。それ故に、求めよと言う神様の命令が与えられているのである。
2 どの様な状況の中でも祈り求めよ
聖書によると、「友達だからと言う事では、起きて何か与える様な事がなくても~」(ルカ11:8)と記されています。と言う事は、友達でなくても、即ち友達の関係が成立していなくても、求めて良いと言う事になります。
ダビデの生涯を研究してみても良く分かる事ですが、かれも決して完全無欠な人ではなく、大きな罪を犯し失敗をしています。一つはご存知の様に、バテシバ事件です。他人の妻に手をかけ、妊娠させそれを隠す為にご主人を殺してしまうと言う卑劣な事をしてしまいました。その為に、彼は神様から大きな懲らしめを受けて苦しむ事になりますが、しかし、その失敗の唯中においても、その中から真剣な祈りを捧げていると言う事です。神様の怒りの顔が見えてとても祈る勇気等持てない時にも断食をして切なる祈りを捧げました。詩編の32編、51篇を読んでみればよく分かります。そして、その祈りは聞かれ、救いを体験したのでした。私達は自分を見る時に、どこかで神様の前に祈る資格がないのではないのか、自分は神様の友達ではないのではないのかと思い、祈る勇気を失いそうないなります。しかし聖書はどんな時にも祈り求めよと勧めています。この年の初めに当たり、もう一度信仰に立ってもとめる体制をととのえなければなりません。
3 しきりに求めよ
ルカによると、11章と18章の2か所にその祈りが熱心なものでなければならない事が勧められている。11章では、「友よ、パンを3個貸して下さい」と言う求めが取り上げられ、18章では「寡婦の裁判官に対する願い」が取り上げられている。どちらとも、その祈りは熱心なものでなければならず、有名な神学者フォーサイスの言葉によれば、格闘的なものでなければならないと勧められている。
新しい年を迎えるに当たって、どうしても聞いていただかなければならない願いと祈りがありますが、是非、新しい年に於いてそれらが成就する為に、何とかして、しきりに願う必要があります。今回の新共同訳では、執拗に頼めばと教えています。
また別の箇所ではダビデは数を数える罪のを犯して、神様から大きな裁きを受ける様になりました。然しその時にも「私は非常に悩んでいますが、主の憐れみは大きいゆえ、我々を主の御手に陥らせて下さい。人間の手にかかりたくない」と告白しながら主の許に逃げ込んで、祈りを捧げてその祈りは聞かれました。
何度拒否されてもみ言葉にたって、しきりに求め続けて行けと勧められいます。今年こそは、リバイバルが起こる様に、世界宣教のみわざが大きく前進するように、切に求め続けたいと思います。神様は私達の教会に対して再三再四リバイバルを起こせ、と迫り続けておられます。この侭で良い筈はずりません。その為には、み言葉に立つ以外にありません。自分を見ないで、神様のみ言葉を信じて、み旨実現の為に今年こそ執拗に、しきりに、願いも問え続けて完全に御心の成就を見る年としたいと思います。
4 神の似姿に似せられるまで
私達は願いが実現すると同時にこの切なる祈りを通してあのヤコブの様に顔と顔を合わせて神をみて、あのずる賢いヤコブから崇高な神の人イスラエルに変貌したいものです。御子の姿に似た者となるまで熱く主に祈る一年でありたいとねがいます。あのバックストンは祈の部屋から出て来る時には顔が主の恵みの光で輝いていたと言われています。