【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年4月5日説教要旨
聖書箇所 コリント第2 4章16~18節
キリスト者の希望
瀬戸 毅義
復活と再臨はキリスト者の大いなる喜びであり希望である。キリスト教会の最も喜ばしい日は、クリスマス(降誕節)とイースター(復活節)である。イースターの頃のうららかな4月の春の青葉はひときわ美しい。初代教会ではイースターは一定していなかった。
ニカイヤ会議(325年)の時にこれを定めて、春分または春分の一日後に来る過越の月の満月の直後の日曜日と定めた。春分の日は3月21日に当たるから、イースターは3月22日より後であり、4月25日より前に来るのである。
イエスが復活したという事実は、新約聖書の復活信仰において特記すべきことである。主はよみがえられたという信仰は、 新約聖書の根本であり、初代教会の弟子たちの宣教の中心であった。師であるイエスの死によって落胆、失望していた弟子たちが立ち上がり力強く宣教し得たのは全くこの信仰に拠ったのである。イエスの復活は、死人の中からのよみがえりの初穂である。キリストがよみがえった以上我々のよみがえりも確実である。
イエスの復活を明瞭に把握したのはパウロであった。キリスト教の永遠の命の希望は、霊魂不滅の信仰に基づくものではなく、復活の信仰に基づくのである。
使徒信条に・・・十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。・・・とある。
キリストは生ける者と死ぬる者を審判するために来る。これが初代のキリスト者が強く信じた再臨の信仰である。再臨なしにキリスト者の救いの完成はない。復活と再臨、ここにキリスト者の希望があります。
数日前夢をみました。それは罪人なる私も救われて復活し天国に行くのです。そのところで、現在病院で病を持ち療養中の次女と出会いました。いやされた娘のほうから「お父さん」と声をかけてくれたのです。「よかったなー、お前にはずいぶん苦労をさせたなー、元気になって、よかったなー」といい、涙で言葉もありません。そこで目が覚めました。夢でした。
しかしこの夢は単なる夢ではないとわたくしは信じます。復活の時、主が再び来られるとき(再臨の時)実現するのです。こうして神の救いの御業が完成するのです。
「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」(第1コリント15:2)。とあります。
君徂寂寂日如年
何疑基督復生賜
最愛良人今在天
君(きみ)徂(ゆ)きて寂寂(せきせき)日(ひ)年(ねん)の如(ごと)し
何(なん)ぞ疑(うたが)わん基督(きりすと)復生(よみがえり)を賜(たまわ)る。
最愛(さいあい)の良人(りょうじん)今(いま)は天(てん)に在(あ)り
遺影=故人の生前の写真や肖像画 寂寂=ひっそりと静かなさま 日如年=一日がとても長い 復生=復活 良人=夫
数年前、仲良しの友、若いN牧師が亡くなられたのです。ご家族の悲しみを思い言葉もありませんでした。残されたご夫人の悲しみは如何ほど大きいかと思いました。拙い漢詩はその時の思いです。
「イエス彼にいいけるは我は復生(よみがえり)なり生命なり。我を信ずる者は死(しぬ)るとも生くべし。凡て生て我を信ずる者は永遠も死(しぬ)ることなし汝これを信ずるや」(ヨハネ11章25節、26節 明治訳)とあります。
私は16歳のときバプテスマ(浸礼:バプテスト教会の云い方)を受けました。入信まで導いてくださった宮地治牧師から聖句をいただきました。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」(ヨハネ黙示録2:10)です。
私はこの言葉「忠実なれ」を「信仰を捨てるな、持ち続けよ」の意味だと思ってきました。60年余り経ちましたが、今も若い日にいただいた信仰を有難く思っています。決心が固くて持ち続けることができたのではないのです。実に神様が忍耐深く守って下さったからです。「忠実であれ」と言われるお方がご自分から支えてくださいました。感謝であります。