【説教音声ファイル】
2019年9月1日説教要旨
聖書箇所 ローマの信徒への手紙6章1~6節
バプテスマ(洗礼)-新しい命に生きるため
瀬戸 毅義
主の晩餐式の終わりに私たちは教会の約束を読んでいます。以下はその一部。
わたしたちは、教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます。主の日の礼拝、教会の諸集会につとめて出席し、教会の交わりのきよくなること、栄えることを祈ります。わたしたちは、バプテスマと主の晩餐の二つの礼典、また聖書の教えと、教会の定めた秩序を守ります。
以前の文体では以下のようでした。
主の日の集会(あつまり)、及び定まりたる集会(あつまり)に來たり、此の教会の聖(きよ)くなること、和合すること、栄ゆることを祈り、又、バプテスマと主の晩餐との二つの礼典、及び新約聖書の教えと教会のただす所の誠(いましめ)とを守りて、教会を人によりて成れるものと思わず、神によりて成れるものと信ずべし。(「バプテスト教会員必携」1958/昭和33)
「バプテスマと主の晩餐との二つの礼典」とあります。その意義はどこにあるのでしょうか。カトリック教会とプロテスタント教会がありますが、カトリック教会は礼典を重んじます。プロテスタント教会ではその意味を教会で解き明かすことは少ないようです。バプテスマ(洗礼)について考えてみましょう。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう(6:5 口語訳)とあります。結びついての原語σύμφυτοιは二つの生物が合体して一体となったものの意味。
傷が癒着(ゆちゃく)することにもいう。文語訳では「我らキリストに接(つ)がれて、その死の状にひとしくば、その復活にも等しかるべし」とあります。私たちがキリストの死に肖(あやか)るならば、キリストにあやかり感化一体化されて間違いなく復活するでしょう。これは接(つ)ぎ木の譬です。キリストが台木(だいぎ)です。私たちはキリストに接がれた枝です。接がれたのですから養いは台木のキリストからきます。
甘ガキの台木に接ぎ木された渋ガキの枝は、甘ガキの樹液によって養われます。私たちは台木から離れないようにしなければなりません。パウロが「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」(ロマ6:12-14)というのはそういう意味だろうと思います。
洗礼がなくともクリスチャンの方々がいます。無教会派の方々です。無教会派のクリスチャンであった塚本虎二はつぎのように記しています。
ただ洗礼が救いの必要条件であることを否定するだけである。わたし達は信仰告白の形式としての洗礼を、よい伝統であると思う。またこれを受けることも無益でないと信ずる。洗礼をうけた者がクリスチャンで、それだけが神の教会員であり、そうでない者はキリストの体に属しないという考え方を、排斥するのである。(塚本虎二著作集第十巻19頁)
上記の説明が誤りだとは思いません。私は無教会派のクリスチャンではありません。高校生の時バプテスマ(洗礼)を受けましたので感謝し大切にしてきました。バプテスマ(洗礼)を受けたことは、何も知らなかった己を謙虚にさせ、「自分免許」のクリスチャンになることから防いでくれたのではないかと思っているのです。
バプテスマ(洗礼)の礼典は「キリストと共に死に、キリストが復活されたように私たちも復活する」ことを、端的に言いあらわすこと実に一幅の画のようではありませんか。言語ではどうしても言い尽くせないことを明瞭に表現します。ここに礼典の重要性があります。
主の晩餐(Lord’s Supper)は初代教会の礼拝の目玉(centerpiece)でした(Know the Word Study Bible,2016 )。
イエスは,最後の晩餐に,パンでご自分の肉,ぶどう酒でご自分の血を示され,弟子たちに分けて飲食されたと聖書に記されています(マタイによる福音書26, ルカ22、ヨハネ13,コリント人への第一 11章)。これはバプテスマと共に,初代教会以来の二大礼典です。同信の友は一つの思いでテーブルを囲み主と一つになりました(コリント第一11:23)。かれらは主キリストの死を追想し、謙虚に心を一つにして主の再び来たり給うことを待ち望みました(マタイ26:26-30)。主の晩餐式の内容は豊かであり恵みに満ちています。
このようにバプテスマ(洗礼)も主の晩餐も言葉で言い尽くすことはできないことを端的に教えます。どんな雄弁な説教でもこれほど簡潔に十分にその言わんとすることを伝えることはできません。ここに礼典の意味があります。
以下は内村鑑三の札幌農学校時代のみずみずしい思い出です。洗礼を受けた時の若き日の日記。
6月2日 日曜日―午前10時に、牧師H氏から説教を聞いた。午後3時に、もう一回の説教と祈祷のあと、6人の兄弟、Ot、M、A、H、T、Fとともに同師から洗礼を受けた。夜、さらに祈祷と説教。決して忘れられない日。H氏は、メスシスト派に属するアメリカ人宣教師で、信仰上私たちを助けるために、一年に一度訪れてきました。彼の前にひざまずき、私たちの罪のため十字架にかけられた方の名を告自するように求められて、私たちは固く決心していたにもかかわらずふるえながらアーメンと答えたことをはっきりと覚えています。
人々の前にキリスト信徒の告白をしたことにより、私たちはそれぞれクリスチャンーネームをもたなくてはならないと考えました。そこでウェブスター辞典の付録で捜してめいめい自分に似つかわしいと思われる名前を選びました。
・・・・。私はヨナタンを名のりました。私は友情の徳を尊び、ダビデに対するヨナタンの愛がたいへん気に入っていたからであります。
ルビコン川はこうして永遠に渡られたのです。私たちは新しい「主君」に忠誠を誓いました。私たちの額には十字架の印がつけられました。どうか、この世の主君と師とに対して示すように教えられた忠誠心をもって、新しき主につかえ、王国を次々と征服して進み行くことのできますように。ついにはどんなに遠い国でもそれがみな救い主の名をおぼえるように。・・・。
(内村鑑三著『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』鈴木範久訳、岩波文庫、2017年。)
二十歳のときキリストを受け入れて徐々に「聖別」された体験
銀座教会名誉牧師 渡辺善太
今朝ね、私がこうやってお話していることは、他人の話じゃありませんよ。今朝は特に若い方にね、考えていただきたい。目の前にいるんですよ、今日の話の実例となる人間が。
私がしばらく前に本郷の中央会堂に説教に行ったんだ。その時私は役員にきいた。「本郷警察署はまだありますか」、「ありますよ、目の前に」、「実は私は二十の時にね、あそこのブタ箱に入れられて三晩も泊められた」、「どうして、ご冗談を」、「冗談じゃアない。酒をくらって下宿屋の親父を殴りとばして、それが電話をかけやがったもんだから刑事がやって来て、あのブタ箱に三晩入れられた」。むこうの建物に入れられた若者が、五十年たったら反対側の教会で説教するようになった。これは、ただごとですか? 教会の説教はうそを言いませんよ。いちいち自分の経験を話すわけにはいかないから説教としてお話するが、みんなこれはわれわれが経験していることです。くどいようですが、われわれの青年時代の野心が、理想が、きよめられ、その間さまざまな苦難、悲しみをへてやがて予想もしなかった、大いなることのために用いられ、実現される。これかキリスト教だ。これがキリスト教の信仰生活だ。今までキリスト教を変な目で見ていた人々、信仰生活が意味のなかったように考えていた人々は、今朝考えて下さい。今朝引用した聖書の言葉(註・詩編8編、14編)はみなこの一点にあるんです。しゃべっている人間自体もこれを経験させられてるんだ。これがキリスト教だ。今朝の話は説教であると共に、説教している人間の「証言」なんですよ!(1964年6月21日。銀座教会における説教) 出典・渡辺善太『銀座の一角から』ヨルダン社、1971年。