2017年9月3日説教要旨
聖書箇所 マルコによる福音書12章41節~44節
梅木 光男
本日の箇所は、ルカ福音書21章にも取り上げられていますが、今回はマルコ福音書12章からやもめが献金をする「レプタ2つの祝福」というタイトルでみ言葉を聴きたいと思います。
主イエスは私たちの罪の購いとして十字架にかかるためにエレサレムに入城され神殿の境内で群衆に教えておられたとき、賽銭箱の向かいに座って群衆がそれにお金を投げ入れる様子をご覧になっておられた。
多くの人がお金を投げ入れまた金持ちがこれ見よがしにたくさんの献金をしていたそのとき、一人の貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨2つを入れるのを見ておられた。
この金額は1デナリの1/64だから、現在の価値に置き変えると約160円程度となります。
概ね食パン1個ぐらいの金額でしょうか?しかもこの献金は乏しい中から自分の持っている物のすべて、つまりその日の生活費全部を奉げたのです。
これを見てイエスは早速弟子たちを呼び寄せて「この貧しいやもめは賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた」と賞賛されたのです。
ここでは献金を奉げることまた、礼拝の姿勢として私たちの「心と行動」が問われています。
当然献金をする金額は「自由」です。つまり神様の意思ではなく、我々の意思(思い)に懸かっているのです。貧しいやもめも生活を考えるとレプタ1つでも充分でした。しかし、今日明日の生活よりも彼女はすべてを神様に差し出したのです。それに引き換え多くの群衆は有り余るものの一部を「虚栄心や自己満足、義務感」のために献金を奉げたのです。
当時の賽銭箱はラッパ状の長い筒みたいになっており、そこを金貨や銀貨そして銅貨が通過していく度にそれぞれ異なった金属音があたかも音楽を奏でるように周りの人々に聞こえるのです。それに引き換えやもめは金銭的貧しさから自由であった。全財産を奉げたことを誇った訳ではなく、神の恵の中で活かされている自分を認め、神を礼拝している姿と金持ちや律法学者が本当に神の栄光と恵に感謝することなく、自分の力や知識、富など誇ることの対比の中で、やがて我々の罪を一切担う運命を目前にした痛みを知る主イエスの心を捉えたのではないでしょうか。