【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年3月15日説教要旨
聖書箇所 Ⅰコリント5章:7節~8節
主の甦りの先行
京都洛西教会員 山田光道
私達の救い主であるイエス・キリストの十字架の受難を覚える受難節(レント)の時を迎えています。この時期を私達はキリストの教会に呼び集められたものとして、どのように過ごそうとしているのでしょうか。
教会に連なる信仰の先達者たちは、イースターまでの40日間を、旧新約聖書に登場する40日間という神と人間の間で執り行われてきた重要な出来事に倣って、この時期を断食を伴う食の制限を設け、人間の肉の欲を抑えてイエスの救い主としての公生涯の最後を追体験しようとしてきました。
イエス・キリストの苦しみを己の苦しみとして受け止めることは、罪許されなければ生きていくことのできない私達人間にとっては本来不可能なことですが、少しでもそのことを覚えようと、食という日常生活に不可欠のものを戒め,過ごそうとしてきました。しかしこのことは、私達の行為が先行するのではなく、キリストが十字架にかかって私達の罪を贖われたという真実・事実から始まるのです。したがって、そのことを受け止める術が既に与えられているということも事実なのです。それは、イエス・キリストが死から甦り、復活されたということです。この悲しみの出来事を唯一受け止めることができるとするならば、それは私達にはイエス・キリストの復活ということが与えられていることでしょう。
私達は日曜日にそれぞれの日常生活の場所より集められて礼拝をささげています。礼拝に預かる者は、意識するとしないにかかわらず時間を超え、イエス・キリストの十字架と復活の最初の出来事に帰っていきます。そのようにして、十字架上の贖いの死によって私達の罪が明らかにされ、同時にその罪からの救いが、慰めと甦りの力によって完成されるのです。そしてまた私達の新しい一歩が始まっていくのです。私達がこの世からいなくなっても、主の再臨の時まで、この出来事は続けられていきます。
今朝の聖書の箇所でパウロが言っているパン種のないパンとは、あのエジプト脱出の際の過ぎ越しのパン、そして、荒野の40年人々を養い続けた天からのマナを連想させるものです。そしてイスラエルの人々のために犠牲となったあの過ぎ越しの子羊こそまさにイエス・キリストの先駆けであり、私達の肉の糧を越えた命の糧ともなるべきものだったのです。