管理人(口語訳では家令)を置くほどの金持ちだった主人は、その財産を一人の人に管理させます。この主人と管理人の間に堅い信頼があることを予想させます。すべての財産を任せるというのは余程の覚悟が必要でしょう。管理を任せ、任せられたという信頼関係をまず語っています。この管理人は、突然「主人の財産を無駄使いしている」(1節)と告発されます。主人にとっては、信頼関係を裏切られたとも言えるでしょう。「もう管理を任せておくわけにはいかない」(2節)と語るほどです。ところが、主人への背信行為をしたこの管理人は、そのことを悔い改めて正直に主人の前に進み出たというわけではありませんでした。ここに、このたとえの一つのポイントがあります。「管理の仕事をやめさせられても、自分を迎え入れてくれるような者を作ればいいのだ」(4節)と思い至ったのです。このたとえの示すのは、不正への謝罪と改心ではなく、「賢くある」ことを考えさせることにあるようです。
この管理人は、「主人に借りのある者」を呼びます。主人の財産をすべて把握し、管理している人ですから、誰が主人に借りのある者かも知っていました。そのような人たちを一人ずつ呼び、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と尋ねます。ある人は「油百バトス」(これは、オリーブ油2,300ℓ。約1千万円)と答え、ある人は「小麦百コロス」と答えます。それほどの借りが主人にあった、という人たちのその証文を書き変えなさいと命じることは、本来管理人としてあるまじき行為です。まさに不正に不正を重ねていると言ってもいいでしょう。不正に使い込んだ上にさらに、自分の身を守るために主人の財産を減らしてしまったのです。
視点をちょっと変えるだけで、全く別の見方が出来るものです。だまし絵で有名な
「ルビンの壺」は、見方によって、壺にでも、向かい合う2人の横顔にも見えるではありませんか。この行為は主人に借りがある人にとっては、喜びに違いありません。このたとえの視線は、「正論」や正当性に注がれているのではなく、「何に忠実であるべきか」を考えさせます。
9節です。「また、私もあなたたちに言う、あなたたちは自分のために、不義のマモンで友人たちを作るがよい。それがなくなる時、彼らがあなたたちを永遠の幕屋に受け入れてくれるようになるためだ」(岩波訳)。「不義のマモン」という言葉に注目しましょう。マモンというのは、アラム語で「富」という意味です。岩波訳では「不義のマモン」、口語訳では「不正の富」と表現しています。つまり、ルカは、この世の富・財は、真に自己のものとはなり得ないことを言っているのです。金持が持てるその富・財は、自己のものではなく神のものだと言っているのです。ですから金持は、神から一時的に預かったその富・財を、神の管理者として相応しく管理しなさい、と言っているのです。
この世の厳しい現実の中を生きる時、この言葉が福音として響く人がいることも私たちは覚えなければなりません。不正を良しとするのではなく、不正によって得た富みででも友達を作りなさい、それは「私という友のことだ」とイエス様は、私たちに教えられているのではないでしょうか。
2015.3.1 説教要旨 牧師 岩橋隆二