【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
※最後のお祈りの一部が録音できておりません。ご了承ください。
2022年1月9日説教要旨
聖書箇所 へブル人への手紙12章1~3節
信仰の生涯
福岡新生キリスト教会
竹田 浩
「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではないか」
(ヘブライ12:1)
1、私達の信仰人生は、神様によって定められたもので(set before us)、自分勝手に道を選ぶ事は出来ません。一人ひとりを信仰の完成に至らせるために走るべき競走を備えてくださっているのです。パウロはその晩年に戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きましたと告白しています(テモテ第二4:7)。私は神様から牧師として選ばれ、50数年を神の僕として生きてきました。そして今、その終わりの時を迎えようとするとき、本当に牧師となって良かったなと心からそれを感謝する事ができます。3人の子供達も皆献身して、主の御用に励んでいるのを見る時、これは確かに神の御心であったと確信する事が出来ます。
2、この聖書の箇所によると、その歩みは多くの証人に取り囲まれていたと告白しています。顧みると信仰に導いてくださった牧師先生や教会の素晴らしい先輩たちの助けによって今日まで来ることが出来ました。そして今も教会の中で立派な証人に取り囲まれて、信仰生活が出来ると言う事が何と幸いな事でしょう。私には日本だけでなく、アメリカで有名なオーラ・ロバーツ先生やメーベル・フランシス先生と言う素晴らしい信仰の先輩たちが与えられ、助けていただきました。また、伝道に困難を覚えていた時、韓国から有名な伝道者を送って下さり、助けて下さいました。そして今も韓国や中国の立派な先生、兄弟姉妹達の共に戦う事が出来ると言う事は何と感謝な事でしょう。真に雲の様な証人達に囲まれた素晴らしい生涯です。
3、その戦いに於いて、重要な事は忍耐強く走り抜く事です。この戦いは短距離競走ではなくマラソンの様な長距離競走です。何十年にも及ぶ戦いです。私は1959年に バプテスマを受けてクリスチャンになりましたので、今年で63年目になります。その間、色んな事がありました。でも、主は常に共にいて助けて下さいました。忍耐せよとは、一言でいえば、「十字架を負うて我に従えと」言う、主のみ言葉に従うことです。信仰人生は十字架に始まり、十字架に終わります。十字架を見上げて救われ、十字架を負うて従い、信仰の完成にいたります。長い牧師生活の中で様々の艱難を通ってきました。しかし。主はその中で十字架を負うて我に従えてと語り掛け常に忍耐の道を導いて下さいました。途中で戦を放り出さないで、十字架を負い続けてきたことを心から感謝しています。パウロが言った様に私達の人生には確かに苦難があります。しかし、解決の無いような苦難はありません。必ず逃れる道が備えてあります。更に大きな栄光に与らせる為に神様は苦難を与えられる事があります。十字架をしっかりと担いながら忍耐して歩き抜きたいと思います。
4、忍耐にはもう一つの意味があります。これはギリシャ語でマクロスミアと言いますが、何か困難がある時に、それを投げ捨ててしまわず、神の約束を信じて耐え抜いて行くことです。神様は必ず語られた事を私達の人生で成就して下さいます。ヤコブは「兄弟達よ、主が来られるとき迄忍耐しなさい。農夫は秋の雨と春の雨が降る迄、忍耐しながら大地の尊い実りを待つのです」(ヤコブ書5:7)と述べています。実る時迄、私達は放り出さず、忍耐して神の時を待たねばなりません。神様は必ず私達の人生において約束したことを成し遂げて下さいますので、忍耐をしっかり学んで身に付けて行きたいと思います。
5、皆様のこの一年が素晴らしい戦いとなります様に、十字架を担いつつ、み言葉を信じつつ、忍耐しながら主に従っていきたいと思います。