【聖書箇所朗読】
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2019年11月3日説教要旨
聖書箇所 エペソ人への手紙2章1~10節
信仰は修養にあらず
瀬戸 毅義
クリスチャン生活の大切な言葉は、神・キリスト・聖霊の三つだろうと思います。この言葉の正しい理解がなければキリスト教はわかりません。もう一つの重要な言葉は「恵み」(口語訳)恩寵(文語)という言葉です。救いが与えられるのは自分の功績や努力によるのではありません。凡てが神より出るのであり神の自由な賜物として与えられるのです。「信仰」は「修養」ではないということはいくら強調してもし過ぎることはないと思います。このことは今朝読んでいただいた聖書に明記されています(エペソ2:8-10)あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
これはどういうことでありましょうか。実在のクリスチャンを通して、そのことを学びたいと思います。内村鑑三の書物を引用することをゆるしてください。それはわたくしには、聖書の信仰や救いのことがわかりやすく説かれていると思うからです。
1884(明治17)年、24歳の内村鑑三は結婚した妻と破婚し米国に渡りました。翌1885(明治18)年25歳でしたが、ペンシルバニア州エルウインのある施設(知能の非常に低い者のための)の看護人となりました。その頃のことは有名な著書『余は如何にしてキリスト信者となりしか』の第7章及び『流竄(リュウザン・ルザン)録』に記されています。内村鑑三は、帰国後は社会の一番低いところにいる薄幸の人々を救いたい、慈善事業をしたいそういう願いをもってアメリカで働きました。
しかしながら彼の霊魂の深いところに歓喜と満足とはありませんでした。彼は義務の念に駆られ自己に鞭うちつつ慈善事業を学んだのでした。彼は苦しいキリスト信者、いわば修養的クリスチャンであったといえるでしょう。彼は神の恩寵をしり生まれ変わるのです。
そのころワシントンの慈善大会に出席したおり、その後一生の友人となるD.Cベルと出会いました。グロースター、ボストンに滞在し、アマースト大学の学長J.H.シイーリー(J.H. Seelye/1824-1895)の理解を得てアマースト大学に選科生とし入学しました。先に述べました二つの著書にはその頃のことが鮮明、かつ感動的に記されています。特に『流竄(リュウザン・ルザン)録』には、アメリカの大学生活のことが記されていて必読の書物だと思います。以下は内村の回心の貴重な記録です。私は何回読んでも大きな感動を覚えます。皆さんもどうかこの「植木鉢のたとえ」をしっかりと覚えてください。
あたかもこの時である。私はシイリー先生の所に送られた。私は先生において私の理想のキリスト信者を見んと欲した。しかるに何ぞ計(はか)らん先生は私の理想とは全然異なった人であった。先生において見るべきは学識でも威厳でも活動でもなかった。嬰児の如き謙遜であった。先生は神学と哲学とにおいて偉大であったが、その偉大は少しも外に現われなかった。先生がその偉大なる人格と学識とを全部主イエスキリストに捧げて居るを見た。これを見た私のキリスト教観は一変した。私はその時新たに初めて基督教に接したように感じた。シイリー先生は一日私を呼んで教えてくれた。
内村、君は君の衷(うち)をのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。何故己に省みる事を止めて十字架の上に君の罪を贖い給いしイエスを仰ぎ瞻(み)ないのか。君の為す所は、小児が植木を鉢に植えてその成長を確定(たしか)めんと欲して毎日その根を抜いて見ると同然である。何故にこれを神と日光とに委(ゆだ)ね奉(たてまつ)り、安心して君の成長を待たぬのか。
先生のこの忠告に私の霊魂は醒(さ)めたのである。私はこの時初めて信仰の何たるかを教えられた。信仰は読んで字の如く信ずる事であって働く事でない。私は修養又は善行に由(より)て救わるるのでない。神の子を信ずるに由りて救わるるのであるとは、シイリー先生がはっきりと私に教えてくれた事である。かくて先生は福音を以て私を生んでくれた。先生は私の霊魂の父である。私かシイリー先生よりこの教え受けたのは1886年であって今より39年前である。その時より今日に至るまで私の信仰は変わらない。私に先生の感化が無かったならば、私はただ固い厳しいキリスト信者であったであろう。あるいは自己の厳粛に堪えずして信仰を棄ててもとの不信者と成ったかもわからない。シイリー先生にキリストの十字架を示されずして、私にほとんど40年間にわたる信仰の生涯は無かったと思う。出典:「クリスマス夜話=私の信仰の先生」『聖書之研究』305号1925/大正14年12月
内村鑑三は札幌農学校出身ですが、「少年よ、大志をいだけ」で有名なW.S.クラーク先生からは直接、教えをうけず、回心を経験したのはアマースト大学の学長J.H.シーリーの言葉によりました。
以下は1886(明治19)年、回心後、アマースト大学での彼の内なる魂の記録です。26歳の青春の記録です。
1886(明治19)年、3月8日
私の生涯で非常に重要な日。キリストの贖罪の力が、今日ほど明らかにあらわれた日はなかった。これまで私の心をうちのめしてきたあらゆる困難の解決は、カミの子の十字架のうちにある。キリストが、すべての私の負い目を贖って、堕落前の原人(first man)の純粋と無垢とに私を戻すことができるのだ。
いまや私はカミの子であり、私のなすべきつとめはイエスを信じることである。イエスのお蔭でカミは私の望むものをなんでも与えてくれるであろう。カミはその栄光のために私を用い、最後には天国で私を救うだろう。
(岩波文庫「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」内村鑑三著、鈴木範久訳、218頁)
十字架にかけられたカミの子についての決定的な把握後、私に生じた上昇と下降の全部を記して読者をわずらわせようとは思いません。下降もありましたが上昇よりは少なかったのです。私の注意は一つのことに巣中しました。私の全霊魂はそれにとりつかれました。私は昼も夜もそれについて考えました。石炭を入れたかごを地下室から私の住んでいる最上階まで持っていくときでも、私はキリストと聖書と三位一体と復活をはじめ、それと同じようなことを考えつづけました。あるときは持っていた二つのかご(バランスをとるために二つさげていました)をまん中の階で下に置き、その場で待ちきれずに感謝の祈りを捧げました。「石炭山」からとってくる途中のその時その場で、三位一体についての新しい説明が私に啓示されたからでした。休暇が始まって私の天国が訪れました。学生たちはみなママに会うために帰省し、大学の丘には私がただ一人の住人として残され、私のママであるカミの優しき霊だけとなりました。(前掲書、220頁)
内村鑑三だけではありません。このような救いを知ったクリスチャンは恵みの生涯を歩き始めます。もはや、かれは修養的クリスチャンではありません。私たちは、どうしたらそのような恩寵を知ることができるのでしょうか。ここで聖霊の御業ということが言われなければなりません。
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ロマ8:26)
神を知らず罪の中にあった私たちを信仰に導き、バプテスマ(洗礼)にまで導いてくださるのは聖霊の働きです。
聖霊の導きについて聖書から一例を学びましょう。キリスト教がアジアからヨーロッパに初めて伝道された時のこと。これはキリスト教の伝道史のなかでも決定的な出来事の一つでした。この時パウロは、直接的な聖霊の導きというよりも、彼の信仰の判断で決めました。このことは使徒行伝に記されています。
パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。(使徒行伝 16:10口語訳)
パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。(新共同訳)
彼が幻に之を見し後我ら誠に主の我儕をしてマケドニヤ人に福音を宣しめんと我儕を召給ふことを推量(おしはかり)て直にマケドニヤに往んとす(明治訳/元訳)
パウロがこの幻を見た時、わたし達(一七節マデノ「ワタシ達記録」ノ記者ヲ含ムパウロ一行)はさっそくマケドニヤ州に出かけることにした。マケドニヤの人に福音を説くために、神はわたし達を呼び出されたのだという結論に達したからである。(塚本虎二訳)
聖霊の導きといいましてもクリスチャンは電波にあやつられる人間のように自動的無条件に行動するのではありません。そういう宗教もあるようですが、キリスト教はそうではありません。日常生活では私たちも多くの場合、信仰の判断が求められます。神からの示しであるかどうかを深く考えてください。そのうえで慎重の上にも慎重に理性と信仰を持って決断をすることが求められます。