【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年2月16日説教要旨
聖書箇所 使徒行伝 17章22~31節
信教の自由を守る日—戦前の「紀元節」
瀬戸 毅義
日本に於けるキリスト教伝道ということを考えてみよう。我々の周囲には様々の神が存在する。八百万のカミということばのように、人間、動物、石、樹木・・いろいろ神になる。キリスト教の伝道という点では日本は実に困難な場所だと思う。努力の中に福音を伝えてきた戦前の方々を忘れないようにしたい(批判することは簡単であるが・・・)。
使徒行伝17にはパウロの伝道の苦労がしのばれる。アテネには偶像がたくさんあった。知られない神への祭壇まであった。そういう環境であったが、パウロは諄諄と福音を説いた。高飛車な態度に出なかった。眞の神の存在を説き、世界の国々がその神の御手の中にあることを説いた。最後に復活のことを説いた。即座に効果をみることはなかったが少なくとも幾人かの信者は与えられた。福音の証は時が良くても悪くても示されねばならない(テモテ第2 4:7)。パウロの説教はその良き模範であると思う。
過日2月11日は祝日「建国記念の日」であった。戦前の日本でこの日は「紀元節」。当時の学校教育専門誌の講堂訓話をそのまま引用します。お聞きください。「今日は2月11日で紀元節でありまして燦(さん)として輝く建国の悠久さを感じると共に神武天皇の御創業をしのぶ誠におめでたい日であります。思いはまさに2千598年の太古にさかのぼります。今日のこの日に我が国第1代の天皇として大和の橿原(かしはら)の宮にご即位の大典をおあげなさいました神武天皇―その日をば永く国家の記念日としての今日の紀元節であります(訓話の冒頭)(『修身教育』昭和13/1938年、2月号)。聞かされる児童は尋常小学生。難しかったことだろうと思う。当時は古代の神話そのままを事実として教えた。儀式は「天皇・皇后陛下」の写真の前で荘厳に行われ、礼儀作法なども詳細に定めてあった(『昭和の国民禮法』昭和16/1942年)。
当日にクラスの教師が「近所の神社にお参りしましたか?」と確かめることもある。「生徒の中にクリスチャン家庭の子がいたら・・・」と想像してみる。幼い児童の心の痛みはどうであろうか。このような時代にクリスチャンだと表明するだけでも大きな勇気が要ったことであろう。ある牧師から(その人は戦前の有名牧師の子であった)、学校で「お前はクリスチャン」言われ殴られたと聞いたことがある。新教の自由とはこういう問題である。
信仰は個人の霊魂の問題であり、国家の関与すべきものではない。公教育の現場で扱うことではない。信教の自由とは何を信じてもよい、信じなくてもよいということである。
戦前の反省を踏まえて日本国憲法の信教の自由が明記された。すべての人に信教の自由を保障し、宗教儀式への強制参加を禁じている(20条)。14条は信条による差別を認めない(信教の自由)。20条は国家にいっさいの宗教的活動や宗教団体への特権付与を禁じる。89条は宗教団体への公金支出を認めない(政教分離)としている。このようにきちんと決められている。
元最高裁判所長官藤林益三(無教会派のクリスチャン)の言葉。
日本には信仰について真剣に考える人が少ない。結婚式は神道で行い、葬式は仏教で行うことについて何ら不思議を感していない。このようなものを多重信仰というが、いろんな宗教を信じて疑わないということは何も信じていないということなのである。私か関与して少数意見を述べた津市地鎮祭訴訟では同僚の裁判官諸氏の多くも同様であったように思う。
信仰は個人の霊魂の問題であり、国家の関与すべきものではない。信教の自由とは何を信じてもよい、信じなくてもよいということである。また宗教を信ずる者は信ずることを宣伝し、行動に表わしてもてもさしつかえないのである。政教分離とは宗教に国家が介入してはならないということである。特定の宗教に財政擺助をしてはならないのである。魂のことは個人にまかせておけばよい。宗教は自立しなければならない。国が援助しなければならないような宗教は駄目である。ここに集う若い方々が信仰を大切にし、宗教と国家の区別をさい然とされることを望んでいる。 (藤林益三著作集⑦75頁、東京布井出版、1988年)
日本のキリスト教人口は少ない。人口の1%あるかないかである。クリスチャンには、時として自分の信仰を吟味せざるを得ない時がある。時代は違いますが、内村鑑三にも同じ体験があった。1891(明治24)年の1月9日、東京の第一高等中学校で教育勅語奉読式があり、その時に不敬事件ということが起きた。教授・生徒は5人ずつ進み出て、壇上にあがり教育勅語の晨署(しんしょ。天皇の署名)を奉拝することになった。講堂正面中央に明治天皇及び皇后の写真が掲げられていた。重々しい雰囲気である。そこに新米教員の内村鑑三がいた。彼は心に瞬時の判断をし、礼拝的低頭をしなかった。このことは内村鑑三不敬事件として後に歴史に残ることになった。それでは、現在の私たちはクリスチャンとして、日本という国をどう考えたら良いのだろうか。内村鑑三は次のように書いているが同様でありたいと思う。
「私はこの短い私のこの生涯をこの日本国を永久に救うその準備のために費やすことのできたのを非常に有難く感じます。・・・私は希望をもって種を蒔いている者であります。・・・キリストのため、国のため、私に若し千度(せんたび)の生涯が与えられますならば、私はすべてこれをこの二つの愛すべき名、即ちイエス・キリストと日本とのために費そうとねがいます」
(失望と希望)。
内村は、アマスト時代、墓碑銘のためとして、以下の言葉を愛用の聖書にかきとめた。I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God.
(自分は日本の為に、日本は世界の為に、世界はキリストの為に、凡ては神の為に)。この言葉は内村のお墓にしっかりと刻まれている。彼のこの気持ちは終生変わることはなかった。(左側の墓に刻まれている。(撮影・瀬戸)
内村の晩年67歳の時に、1928/昭和3年11月10日裕仁天皇の即位式が京都であった。日本中が大騒ぎをしている時に、彼は愛弟子の石原兵永にこう語りました。
「君、日本がこんなに腐って行き、教育も政治も、どうすることもできない様になるその根本のわけは何だと思う?それは他にもいろいろ理由はあるかも知らんが、おもにこれだよ。人間を神様として祭るからだ。そして神様としてこれを人々に拝ませるからだよ。Idolatry(偶像礼拝)とは実に恐ろしいものだよ。ここに偽善の根本があるのだ。」(政池仁『内村鑑三伝』187頁)
上記の不敬事件から、54年後の1945/昭和20年、日本は敗戦の辱めを受けた。敗戦より3年後の1948/昭和23年の6月19日、衆参両議院で教育勅語の排除と失効の決議が以下のようになされた。
「思うにこれらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対して疑念を残すもととなる・・・・政府はただちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の決議を完うすべきである。以上決議する。」