【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年11月13日説教要旨
聖書箇所 ルカ18:1-8
切実な祈りの必要性
竹田 浩
1.求めることの大事さ
イエス様は山上の垂訓の中で、「求めなさい、そうすれば、与えられます」と教えてくださいました。私たちの信仰生活の中で祈りが重要であることはだれでも知っている事です。祈る時に重要なことは求めると言う事です。有名な神学者カール・バルトは以下のように、求めの必要性を述べています。
「我々、貧しい人間の、求めを永遠の初めからして、その摂理と意思の中に取り上げていたもう事を知る。すなわち、神は時間の中における我々の求めを勘定にいれて、それを歴史の中に実現させたもうのである。ここで祈らない事は、それは祈る必要がないと言う、推論にとどまらず、神への不従順に他ならない」。
「すなわち、祈りとは決定的に求めであると言う事である。それは、神に向けられた求めである。だが求めである」。
以上はバルトの教義学の中における祈りに関する教えであるが、我々が買い物をする時に勘定を払わないでは、何も得ることができないように、私達の信仰生活において、求めると言う事はそれほど、重要な事なのです。
2. 真剣な求めの必要性
祈りが求めであることは重要な点であるが、その求めの祈りが真剣なものでなければならないと言うのは、聖書の大事な教えである。有名なフォーサイスはその著書「祈りの精神」の中で以下のように真剣な祈りの必要性を述べている。
「我々はあまりにも早く御心がなりますようにと祈りやすい。しかし、余りにも簡単に事態を神の意志として甘受することは、柔弱や怠惰を意味するのである。神の意志に打ち勝つ程に祈ることが神の御心であり、神のより高い意思の実現を目指して、頑強に粘り強い祈りをささげることが更に御心に叶う事なのである。感傷的祈りではなく、意思的祈りであるべきである。我々の祈りから格闘的祈りが消えて久しい」。
と述べて私たちが熱心に祈るべき事を強い言葉で奨めている。私たちは信仰生活において熱心に祈ることがいかに必要であるかを自覚しなければなりません。
3. 何度でも求めること
ルカ18;1~8のみ言葉は私たちに寡婦と裁判官のたとえ話をもって,その事を教えている。
何度断られても、執拗に求めるときに与えられることを教えている。
「まして、神は日夜叫び求めている選民のために、正しい裁きを行わないでそのままにしておられる事があろうか」
と教えて何回でも与えられるまで、執拗に祈り求める事を教えています。私たちもこのイエス様が教えてくださった祈りを実践して信仰の戦いに勝利したいものです。