【聖書箇所朗読】
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2024年3月10日説教要旨
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一1章18~25節
十字架のほかには誇るものはあらず
踊 一郎
「誇る者は主を誇れ」
■使徒言行録18:1~11には、使徒パウロがコリントで福音を宣教した出来事が記されています。最初彼はユダヤ人の会堂で「イエスはメシアである」と宣教しましたが、十字架に架けられた者がメシアであるはずがないと人々が口汚くののしったため、「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と宣言し、会堂を去って神をあがめる異邦人ティティオ・ユストの家に移ります。「彼の家は会堂の隣にあった」と記されています。そうするとユダヤ人の会堂では「イエスはのろわれよ」、隣のユストの家では「イエスは主である」と全く異なる告白をしていたことになります。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)。
■当時のユダヤ人にとって十字架は躓きでした。「木にかけられた死体は神に呪われたもの」(申命記21:23)と記されていますので、そのイエスが救い主であるはずがない! これは異邦人にとっても同様でした。哲学や美術を愛するギリシャ人には十字架の死は愚かで見苦しいことであり、力を愛するローマ人には十字架の死は無力以外ではなかったでしょう。だからパウロが「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Ⅰコリント1:23)と言ったとおりだったのです。
■ではイエスの弟子にとってどうだったのでしょう。当初は彼らもユダヤ人や異邦人と同様に思ったでしょう。しかし彼らはこの十字架が告げる真の意味をやがて見出したのです。父なる神は御子イエスを見捨てたのではなく、まさに苦しむ御子と共におられたのだという事実、さらにイエスの死は私たちの罪の贖いだった、ということです。だからこそ初代のキリスト者にとってキリストの十字架は決定的に重要かつ誇るべき出来事となったのです。
■使徒パウロは宣言します。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)。またこうも言います。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。・・・召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(Ⅰコリント1:23~24)。私たちもこの十字架のキリストに心から仕え、十字架の福音を熱心に宣べ伝えるのです。