【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年2月10日説教要旨
聖書箇所 コリント人への第2の手紙 4章7節~11節
土の器と宝
興津 吉英
「土の器」をはじめここに記されているものは、決して明るい輝かしい言葉ではありません。しかしいずれもなぜか私たちの心を深いところで慰め鼓舞する。実はこの箇所の中心は「土の器」ではなくこの「宝」でです。ひとつ前の6節の神様から与えられた「イエス・キリストと神の栄光を悟る光」です。
生きて働き、考え語る人間とはまったく反対の存在。それが土であり、土の器です。使徒パウロはこのようなものに人間をなぞらえる。8・9節ではこのような、人間の歩みの困難さが語られます。私たちが遭遇する困難がいくつもあげられます。しかし、実に幸いなことにこの箇所で告げられるのは、そのような私たちでも苦しみが苦しみのままに終わるのではないということです。”何々されても何々しない”という形でくり返し語られ、私たちに大きな慰めと励ましを与えてくれます。
困難や苦しみはさまざまあるが、必ず、少し違った面から私たちには助けられる道が残され、あるいは与えられ、私たちは確かにその困難から救い出される、ということが明解に語られています。私たちがこうむる様々の苦しみ、私たちが直面する死、それはイエス様がこうむられた苦しみ、そしてイエス様が十字架において死なれた死と別のものではない。それは、私たちが何かイエス様にあずかろうとして崇高な苦しみや死を遂げるというようなことではない。むしろ私たちの、決して崇高でも何でもない、狭い小さなことも含めた苦しみやあるいは看取られることもない死。これを先だってイエス様が担ってくださったので、私たちはあらためてそのイエス様の死にあずかることで生きることができるのだ、ということをあらわしているのだと思います。
人の世にある様々な苦難と死が、イエス様の苦難そのものであり死そのものなのです。それを担い尽くすのがイエス様の歩みだったのです。そして、そのような苦しみにある生き方こそがイエス様が命の道として示された生き方なのです。このような生き方を私たちが知ることが許されていること。そして知った私たちは愛する人々にそのことを伝えることがゆるされていること。これが土の器の内なる宝の意味であると思います。
今ここに土の器である自分を直視せよ。まことに脆い小さなものである。でも、こんなものと思わずに、それは神があなたに宝を用意して下さる器だと考えよ。それがこの章の終わりにあるように、見えないものに目を注ぐ、希望のもとにある信仰なのです。