2017.3.26説教要旨 題:「大宣教命令」聖書:マタイ28:18~20
牧師 岩橋 隆二
ここではイエス様が、私たちキリスト者に対して重要な命令をなさっていることを覚えなければなりません。イエス様は、神の子としての権威によって、世界中への宣教命令を出されました。命令は、〈行って、あらゆる国の人々を弟子とする〉ことです。それは〈バプテスマを授ける〉ことと、〈教える〉ことによって成ることです。〈あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ〉の〈教えよ〉は、原語ディダスコンテスで現在分詞であり、それが絶えず継続されなければならないことを示しています。その教える内容は、イエス様が啓示されたことのすべてであり、それは新約聖書全般に記されているものです。
教会は「バプテスマを受けた信徒の群れ」としてしばしば定義されます。しかし単にそれだけではありません。教会はキリストにある救いにあずかり、キリストのみ言葉に絶えず服従して生きる神の民の集まりなのです。集まりとしての教会のアイデンティティは、イエス・キリストのみ言葉に絶えず服従して生きる神の民の集まりなのです。集まりとしての教会のアイデンティティは、イエス・キリストの一人の弟子のアイデンティティとよく似ています。弟子の第一の責任は、彼を召した方に従うことです。これは最初の応答だけでなく、続けて師の命令に従うことを必然的に課しています。それは喜んで従う意欲の表明だけでなく、日毎に、師の道を歩むことを要求するものです。もし人が師のみ言葉にとどまっていなければ、その人はもはや弟子ではありません(ヨハネ8:31)。しかしキリストの言葉にとどまることは、キリストの言葉を理解することが前提になります。そしてそのように理解することは、自動的に、安上がりにできることではありません。忠実な学びとたゆまない適用の代価を払って初めて、キリストのみ言葉を買い取ることができるのです。
イエス様は、耳の聞こえない人に、目が見えない人に、全身におできが出来ている人に、心が病んでいる人に、誰もが見向きもしない人に、徹底的に心を尽して向き合われました。あなたは罪赦され贖われたその喜びを自分だけのものにしていませんか? あなたは一人でも隣人をバプテスマに導きましたか? イエス様は、主の命令に従って実践した者たちと実践しなかった者たちが、最後の裁きの時には明らかに分けられると言われています。イエス様が言われた「行って、バプテスマを授け、教えよ」その意味をしっかりと受け止め、福音宣教に励んでまいりましょう。(祈り:疑い深い私たちをもう一度弟子として呼び、伝道の命令を与えて下さる復活の主よ。使命の場でイエス様を伝え、人々を弟子とすることができるように私たちを立て上げて下さい。虚しい人生に意味を与え、渇いた心に愛を与え、空腹な人に温かい食事とたましいの糧を与えることのできる主のしもべとならせてください。感謝して、御名によりお祈りいたします。アーメン