【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年7月28日説教要旨
聖書箇所 マルコによる福音書10章46節~52節
救われた人へ
山田 光道(和白教会)
この人の心の中にどのような思いが、激しくうごめいていたことでしょうか。人にものを乞うてしか生きていくことができないこの人にとって、目さえ見えれば自分はしっかりと目的を持っていきていくことができる。人と共に生きていくことができる。
テマイの子と呼ばれていたこの人のことを周囲の人は、ある種の思いを持って接していたことでしょう。父テマイが生きていた時には配慮を持って育てられていた。しかし時が過ぎ、いつしか現在の状態になってしまった。そのような中で人々のうわさにのぼっていた救い主といわれるイエスがこのエリコを通ってエルサレムに向かわれるという。人一倍鋭い彼の感覚は、激しくゆすぶられた。はっきりとイエスの存在を人々の通常の視覚をはるかに超えた把握力で認識して、全身から叫び出した。「ダビデの子イエスよ私をあわれんでください」と。彼は彼の全人格を持って救ってくださいと人々が押しとどめるのを振り切り叫び続けた。彼は目を治してくださいとは言わなかった。自分の全てをかけて「あなたのあわれみによって救ってください」と叫んだのです。
この叫びはイエスにしっかり届いた。彼を呼べと言われて、盲人が願うことは何かということが誰の目にも明らかにもかかわらず、「何をしてほしいのか」と尋ねられた。彼にとっては救いとは目が見えるようになることであった。「救い」とは私たちにとって最も切実な困難があわれみを持って受け止められ、真の人格関係を通してのそれからの解放なのです。
癒されたバルテマイに対してイエスは不思議なことを言われる。「あなたの信仰があなたを救った」と。ここに「信仰」とは徹底的に私達から出て来るものではないということが知らされます。か弱い草の花たる私達の、この方ならばという切なるゆだねる思いがイエスによって、しっかりと受け止められた。イエスはそれを信仰と呼んでくださった。このように信仰は一方的に救い主イエスの側から与えられるものなのです。
救われたこの人には大切な使命が与えられる。「行け」と言われたにもかかわらず、この人はイエスに従う決断をしていった。このようにして、この救われた人は、大切な神のわざに直接に参与する者とされたのです。