2018年3月4日説教要旨 マルコ14:17~26
「最後の晩餐」
梅木光男
イースターが近づいてきました。この機会に再度主イエスの十字架による死と甦りの意味を考えるために、マルコ福音書から今回の聖書の箇所である過越の祭りにエレサレム入城されたときの最後の晩餐の場面をとりあげました。本日の箇所は2部構成になっており、最初の部分は過越の食事を主イエスご自身が用意され、これから起こる弟子の一人の裏切りと過越に必要な贖いの子羊である主ご自身を暗示されるところで、かの有名なレオナルド・ダビンチは「最後の晩餐」の絵でこの状況を凝縮して表しています。そこには「裏切り」という言葉が津波のように弟子たちの間に広がり、その驚きと戸惑いそして不信感など一人ひとりの表情が如実に表現されています。しかもこの名画がイタリアのサンタ・マリア修道院の食堂に描かれていることも最も相応しいといえましょう。
この裏切りは実は単に一人の弟子だけではなく、弟子たちすべてであり、また、わたしたちすべてであることを忘れてはなりません。
次の部分は現在も我々が記念して実施している「主の晩餐」について記されています。主イエスは「パンを取り、これはわたしの体である。また杯を取ってこれはわたしの血、契約の血である。」と宣言され、賛美と感謝の祈りを唱えて弟子たちに渡されたという場面です。
主の食卓に罪びとである私たちが招かれ、そこで主の体と血を記念するパンとぶどう酒を渡され、主の祝福のなかでその恵と赦しに与るという最も素晴らしい出来事です。
わたしたちも弟子たちと同様賛美の歌をうたってそれぞれ示された場所にでかけようではありませんか。