【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2023年7月16日説教要旨
聖書箇所 マタイ福音書5:20~25
最後の1コドラント
片山 寛
「最後の1コドラントを支払ってしまうまでは、決して獄から出てくることはできない」とイエスさまは言われました。1コドラントというのはどのぐらいの値打ちのお金なのかを、正確に言うことはできませんが、一日の報酬が1デナリで、その64分の1が1コドラントでありますから、まあ50円か100円ぐらいの値打ちの銅貨であったと思われます。最後の百円を払い終わるまでは、牢屋から出ることはできない。そのぐらい厳しいんだ、とイエスさまは言われるのです。
何が厳しいのかというと、それは、「キリスト教の戒律が」です。私たちには誤解があって、キリスト教は優しい愛の教えであって、ユダヤ教のように613もの厳しい戒律で縛られることがないから楽だ、と思っていないでしょうか。「私の荷は負いやすい」(マタイ11, 30)とイエスさまも仰っています。確かにキリスト教の戒めはそれほど多くありません。たった二つ、あるいは三つであるとも言えます。しかしそのわずかな戒めが、本当に難しいのです。次のような物語があります。
十字架の広間
中世から伝わる伝説である。不運つづきの男がいた。彼は自分の背負わされている十字架があまりに重いので、いつも嘆いていた。するとある晩、男は夢を見た。神が、自分を連れて、大きな広間に案内してくださった。そこには、人間のかつぐべきありとあらゆる十字架が壁に立てかけてあった。「選びなさい」と神は言われた。男は探しはじめた。とても薄くて軽そうな十字架もあったが、それらは丈が長すぎたり、幅が大きすぎたりする。小さな十字架も見つけたが、いざそれを持ち上げようとすると、まるで鉛のように重いのである。次に見つけた十字架は、重さも大きさも手頃なので、彼の気に入った。ところが自分の肩に背負ってみると、ちょうど自分の肩にあたる場所に小さな釘が突き出ていて、それがまるで茨のように肩の肉に食い込むのである。こうして、すべての十字架にどこかしら不適当なところがあった。男はすべての十字架を見て回ったのだが、結局自分に合った十字架は見つからなかった。ため息をついていた時に、男はひょいと、他の十字架の影になった場所に、一つの十字架を見つけた。持ってみると、重すぎも軽すぎもしない。まるで自分のためにあつらえたような手頃な大きさなので、その十字架は彼の気に入った。そうだ、これからはこの十字架をかついで歩こう、と男は決心した。そして男が、その十字架を引き寄せて、肩にかついでみた時、彼はそれが、自分がこれまでずっと背負ってきた、自分自身の十字架であることに気づいた。
Kurzgeschichten I, 46