以前私が在籍した教会での出来事ですが、礼拝後壮年のある信徒が当時60歳位の牧師に対し、「先生くらいのベテランになると、説教は自由自在に出来るのでしょうね」と話しかけました。すると牧師は真剣な顔をして次のように答えられました。「とんでもありません、毎回講壇で足がガタガタと震えています。神さまの前に立つということは、わが身が正され怖いことです」と言われたのでした。既に二千回以上も説教をしてこられた牧師の言葉です。側でそのやりとりを聞いていた私は、謙遜で言っておられる言葉であろうと、額面通りには受け取りませんでした。
私たちはこの世に生きて行くかぎり、「確信」つまり「堅く信じて疑わない人生」を歩いていきたいと願っています。ではその確信はどこから来るのでしょうか。この世に生きているかぎり、誰もが悩みがあります。患難・苦難という大げさなことではなくとも、かなしみ・なげき・心配といった憂えることは、常に身の回りにあります。それらに打ち勝つ確信は何でしょうか。イエス様に結び合わされているという確信はどこからくるのでしょうか。
足がガタガタ震えると言われた牧師先生の説教は、私には実に堂々と自信に満ちた姿に見えました。しかし先生は説教の度毎に自信がなく不安だとおっしゃっているのです。今私自身が説教者となり先生の言葉を思い起こす時、気付かされることは、人間的な思いでどんなに努力しても、次々に起こる信仰者の不確かさを乗り越えることはできない、ということです。確信ある姿に見えるのは、神の霊、すなわちイエス・キリストが伴ってくださって、はじめて成るということです。私たちの中には確信はなくて良いのです。確信はイエス・キリストそのものです。
私たちはどんなに学問を積んでも、宗教的な修行をしても、そのような人間的な努力では確信をもった生き方はできません。聖霊を受け、イエスを救い主であると信じたときにはじめて、確信に満ちた姿になるのです。そして心の底からの笑顔が出てきます。不安、苦しみ、悩みから解放してくださったのは、神の力です。神の力が出発点として与えられることにより平安に満たされます。私たちはクリスチャンになる以前より険しく厳しい道を歩いているかも知れませんが、その厳しい道は無限の希望の広がりを持っているのです。
2014.6.29 牧師 岩橋隆二