【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年10月20日説教要旨
聖書箇所 詩篇16篇1-11節
ヤコブとエサウ
踊 真一郎
詩篇16篇はイスラエルの黄金時代を築いた王ダビデの歌と言われています。彼は政治的、軍事的に卓越した技量を持った英雄であり、芸術にも秀でていました。ただ、彼は弱さや苦労を抱えた人物でもあります。王になる以前は主君に命を狙われたり(サム上19章-)、王になった後は家臣の妻と関係をもち、その悪事を汚い仕方で隠したことで神さまの強い叱責を受けたり(サム下11-12章)、息子同士が殺し合いをしたり(サム下13章)、息子から謀反を起こされたため処刑せねばならなかったり(サム下15章-)。そんな人生の痛みも多々経験したダビデが人生を振り返り、自分の人生の支えとは何か、どのように生きることが幸いかを語ったのが今朝の詩篇16篇です。
1-3節でダビデは、「神さまこそが私の幸いだ」と喜びを歌います。
しかし4節、ダビデは神さまに従わぬ者たちについての警告を発します。彼が神さまに従わぬ者たちが「悲しみを増す」と語ったのは、彼らが4節「血の潅祭」と「異教の神の名が呼ばれる」儀式のゆえでした。「血の潅祭」とは、何かの命を異教の神にささげる代償として自分の幸せを祈る儀式です。彼らは強い幸せを得るためにより大きな犠牲を献げ、「ほら、わたしはこんなにも大きな代償を生贄にしました。だから、その分、大きな幸せをください」と願った。ダビデはそんな、自分の幸せのために、自分以外の犠牲を求める仕組みに「幸いはない」と断言するのです。
5節でダビデは改めて「わたしは神さまから最もふさわしい祝福をいただけた」と感謝します。そして、そんな祝福に満ちた生き方のヒントを8節で語っているのです。
「わたしは常に主をわたしの前に置く」
「主を前に置く」と言われると、目の前に神さまがデ~ンとおられ、それ以外は何も見えないようなイメージが湧いてきます。でも、そのイメージは正確ではありません。この言葉の正確な意味は「主を透かして(向こう側を)見る、主を通して見る」です。メガネをかけるとレンズ越しに物事を見えるように、ダビデは神さまを通して自分の現実を見ていたと歌ったのでした。
第二次大戦後、冷戦と各地で頻発する紛争多い1953-1961年に国連事務総長を務めたダグ・ハマーショルドは日記『道しるべ』の中でこう記しています。
「理解する――心の静けさを通じて。
行動する――心の静けさから出発して。
かちとる――心の静けさのうちに」。