【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2023年6月11日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書5章1~12節
神の国のマニフェスト
西南学院バプテスト教会協力牧師
踊 一郎
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」マタイによる福音書5章1~2節
ガリラヤ湖畔は主イエスの宣教の舞台となった場所です。現在その地には山上の説教を記念してフランシスコ会の「山上の垂訓教会」が建っています。私が訪ねたのはもう36年も前のことです。空は青く澄み、心地よい風が吹き、足元に咲く草花がやさしく揺れていました。主はこんな日にあの説教をなさったのだろうか、それを聞いた弟子たちは何と幸いだろうと思いました。しばらく目を閉じていると、あの交わりに私も招かれ、弟子たちの後ろで主の御声に耳を傾けることを許されていると思ったことでした。
3~10節を注意して読むと、大切なことに気づきます。第一の幸いと第八の幸いには「天の国はその人たちのものである」と同じ言葉が使われています。これはこの福音書の著者が得意とする「囲い込み」です。つまりここに記されている八つの幸いはすべて「天の国」において起こることなのです。
マタイ福音書の著者は「神」という言葉を軽々しく口にすべきではないと考えて「天の国」と言いましたが、ルカ福音書の著者は「神の国」と表現しました。いずれも神のご支配を意味しています。
現代の私たちからすると、「天の国」は死後の世界を連想してしまうかもしれません。しかし聖書の神は生ける者と死ねる者の支配者で、死後はもちろん神の支配下にありますが、今生きているこの世界も間違いなく神のご支配の中にあるのです。
神が支配されるところでは驚くべき大転換、どんでん返しが起こるのです。例えば5:4を見てみましょう。「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」。聖書の神は現状維持を容認する方ではありません。苦しみや悲しみの原因を取り除き、新しい喜びに生きる道を切り開かれるお方です。ですからカトリックのある司祭はこの山上の説教を「神の国のマニフェスト」と言い、さらに教皇フランシスコは「キリストの身分証」と表現しているのです。