2017年6月18日説教要旨 聖書箇所:マタイによる福音書20章1節~16節
梅木 光男
「約束の1デナリ」
今日の箇所は、新共同訳聖書では「ぶどう園の労働者」のたとえと見出しがついている天国についてのたとえです。
イエス様が地上の生活を送っておられた時代はローマ帝国の支配下で、重税と雇用不安の中、失業者が多く、人々は日雇い労働者としてかろうじて生計を立てていました。このたとえの中で、ぶどう園の主人は夜明け頃、1日1デナリの約束で労働者を雇いました。さらに主人は、9時、12時、3時そして夕方5時と5回に渡って労働者を雇いました。1デナリとは当時の労働者の平均的な1日の賃金です。さて、夕方の6時になると、最後に来た者から始めて最初に来たものまで順番に賃金を払い始めました。1時間しか働かなかった人達が1デナリもらったので、朝早く最初から働いていた人達は当然もっと多く貰えるだろうと思っていたのに、彼らが受け取ったのもやはり1デナリずつでした。不平をいう彼らに、主人は約束どおりだから、何も不当なことはしていないと言います。そして、最後の者にもあなたと同じだけしてやりたいのだと言います。
この箇所は、1節に書かれている様に天国についてのたとえです。むくいについてではなく、救いについてのたとえです。天国に入る権利(救い)は、ただ神の恵みのみによります。このたとえでは、神は主人であり、信者は労働者たちです。一般に、労働の価値は働いた時間の長さによって決定されます。同じように、当時のユダヤの人たちは人間の価値を律法を守る期間(年数)によって判断し、長老は尊敬され、子供は軽視されていました。財産や地位がある、能力が高い、キリストと共に多くの時間を過ごしたので勝っていると思っている人は、このたとえをよく聞かねばなりません。人が救われるのは、ただ神の恵みによる信仰によってです。長い間、神を信じ神に仕えてきた人々にも、人生の最後の瞬間に神の救いを求め信じた人々にも、同じように永遠の命が与えられる惜しみない恵みの神が、気前の良い主人として表現されています。人間の価値観と神の価値観の違いが浮き彫りにされています。この世の価値基準で、私たちを判断されるのでなく、ありのまま受け入れて下さる主に感謝しつつ、私たちも、神から頂く愛を持って周りの人々を受け入れていきたいものです。