【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年11月17日説教要旨
聖書箇所 テモテへの第二の手紙3章16~17節
聖書の言葉は不滅
瀬戸 毅義
1979/昭和53年の12月のことでした。当時在学していた南部バプテスト神学校で聖地旅行の応募がありました。2週間ほどの旅行でしたがアメリカの方々の旅行に参加しました。日本人は私一人でした。15万円ほどの費用だったかと記憶します。費用は妻がやりくりの中から、日本から送ってくれました。エジプト、イスラエル、ヨルダン、シリアの4カ国を訪れました。神学校の新約釈義の教授、聖地に詳しい牧師達もいました。
最初はエジプトでしたがピラミッドを見た時の感動は今も忘れません。歴史の教科書で見たものが目の前にありました。何千年も前に引き戻されたように感じました。塩谷(しおのや)温(おん)/節山(せつざん)<1878-1962>の漢詩に『埃及(エジプト)回顧』があります。戦前にまだピラミッドの周辺が未整頓であった頃の作者の感慨を漢詩にしたものだろうと思います。
怪神像古沒沙丘
帝魂不返繁華盡
唯有大江依舊流
怪神像は古(ふ)りて 沙丘に没す
帝魂 返らず 繁華尽く
唯(ただ)大江(たいこう)の旧に依(よ)って流るる有り
三角陵はピラミッド、怪神像はスフインクス、大江(たいこう)はナイル川のこと。エジプトに来てみると、ビラミッドは遥か昔に、荒れ果てている。スフインクスは砂丘に埋もれている。エジプトの大国も高度な文明も滅び、帝王のみたまも帰らない。ただナイル川だけが昔と変わらず今も流れている。
この漢詩のようにエジプトの文明も滅んでしまいました。周囲の国々、アッシリアもバビロニアも滅びました。アブラハムの頃からかたちに表わすことのできない神ヤーウエを信じ続けた少数民族のユダヤ人はいまなお歴史を生きています。
聖書という書物も彼らの中よりうまれました。聖書の「聖」の(ギリシャ語/ハギオス)字は、選別を意味する聖別の聖です。神により世より分別された特別の書という意味です。聖(きよい)書ではありません。また聖(きよ)い人が読む書物という意味でもありません。聖書は罪を覚えない清浄無垢を誇る聖人が読む書物ではないのです。反対に聖書は罪びとのための書物です。したがって己の罪を悲しまない人には、聖書は不用です。自己が罪深き者であることを知る人が聖書を読めば慰めを受けます。罪多きが故に私たちは聖書を読むのです。聖書の言葉を読みましょう。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」(イザヤ書1:18)有難いことです。
また聖書の言葉はその人を賢くするとあります。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩編119:130)聖書を読んでください。知恵が与えられます。
聖書の特長を考えてみましょう。聖書は旧約・新約と分かれていますが一冊にまとまっています。持ち運びもできます。フリガナが振ってあり、誰でも読むことができるのです。
仏教の経典などはどうでしょうか。
その経典の数は1000~3000もあり正確なところはわからないそうです。漢文で記されたものが多く、だれでも簡単に読めるものではありません。
聖書の言葉に人生を変えられた人に升崎外彦(ますざき そとひこ)<1892-1975>がいます。1892/明治25年に金沢に生まれました。母は、浄土真宗のお寺の一人娘でした。外彦の出産に際し、母体が危険になり、中絶を勧める医師に対し、「この子は仏様からの授かり子です。お寺の跡取りにして下さい」と遺言し、出産三日後に亡くなりました。母の遺言に従いお寺に入り、七歳でお経を教わりました。十四歳のころから寺院生活に虚しさを感じ「人生とは何か?」と悩みました。
真宗、臨済宗、曹洞宗などの名僧に教えを請いましたが満足はありません。金光教、天理教、御嶽教、みそぎ教などの宗教を転々としました。心に平安はなく、絶望し6回も自殺をはかりましたが死にきれませんでした。死に場所を求めて金沢の町を放浪しました。ところがある日町を行くうちに身震いする程嫌なものにぶつかりました。それは救世軍の路傍伝道でした。一目散に駆け抜けようとしたはずみに電柱に頭をぶつけてよろめき倒れました。その時、『凡て勞する者・重荷を負う者、われに來れ、われ汝らを休ません。』(マタイ傳11:28 文語)との言葉が目に飛び込みました。「先生、僕を救って下さい。僕は疲れ切っています。背負いかれない重荷でつぶされそうです。今も自殺しようとしていたところです」と救世軍士官の前に跪きました。15才でした。彼は救世軍金沢小隊の門をくぐりました。士官は短刀直入に、イエスの十字架の福音を説きました。それは「他の者によりては救を得ることなし、天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を、人に賜ひし事なければなり」(使徒行傳 4:12文語)という聖書の言葉でした。升崎外彦は後に牧師になり伝道に励みました。(田中芳三『荒野に水は湧くーぞうり履きの伝道者升崎外彦物語―』クリスチャン・グラフ社、1986年より)。
この世のものはすべて過ぎゆきます。ただ神のことば、キリストのことばは一言(いちごん)一句もすぎゆきません。永久に朽ちない力のある言葉です。
聖書の言葉
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。(マタイ24:35)
あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」(ペテロ第1:13-25)
このように聖書の言葉は不滅です。この朽ちない言葉、聖書の言葉こそ、私たちの人生の盤石の土台であり生活の土台です。