【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2018年9月23日説教要旨
聖書箇所 ホセア書 2章:14節-22節
荒野の思い遣(や)り
瀬戸毅義
旧約聖書のホセアとアモスは、前8世紀の預言者です。アモスの預言はおおよそ前760年、ホセアは遅れること10年、前750年頃でした。時代的背景を同じくしている二人ですが、預言の調子の色彩は異なります。両者共に神との倫理的関係を説いたことは同じですが、召命の体験は異なりました。アモスが義の預言者と言われるのに対して、ホセアは愛の預言者と言われます。ホセアの預言の動機は彼の家庭の悲劇から出発しました。彼は自分の悲痛な体験を通して、イスラエルに対する神の深い愛を知りました。
妻のゴメルはホセアを棄てて愛人と共に、知らぬ他国を放浪する身となりましたが、ホセアは彼女を探し出し、彼女を呼び戻しました(3:1-2)。これは事実の話であったのでしょうか。または幻、たとえ、象徴的預言であって事実ではなかったのでしょうか。
1章、3章のホセアのゴメルとの結婚、3人の子供の命名などから、彼の実際の家庭を推論するには異論があるとの指摘があります(The New Oxford Annotated Bible, Hosea,)。
ここでは事実であったとの伝統的な説に従いたいと思います。
ホセアはこの不幸な結婚を通し、イスラエルと神の関係の深さを学びました。さらに自分の結婚問題には深い神の摂理があるということも知りました。当時ホセアの国は外見上、富国強兵で国威が盛んなように見えました。一方では王と民の心は偶像礼拝に蝕まれていました。その結果終に北のイスラエルは滅びてしまいました(前722年)。このような時代にホセアは神の言葉を述べました。彼は心が強く、意志の強い人でした。彼は神により実物の教師となり、神の愛を教えるものとなりました。預言者の生涯とは辛いものです。身を切られるような悲痛な体験そのものをもって、国民に対し神の御心を語りました。旧約の預言者に限ったことではありません。私たち各自にも与えられるもろもろの出来事、苦難があります。すべてが神の御旨を学び証しするための素材として用いられるなら、私たちの一生に意味があります。神の御用に用いられるならば、わたしたちの生涯の幸不幸などは問題ではありません。神は荒野(人生の砂漠)で、私たちを力づけてくださいます。励ましてくださいます。
矢内原忠雄 ホセア書より
かつて聞く、若かりし日の内村繿三が結婚問題に傷ついた心を茨城県袋田の滝にいやすべく、上野駅から汽車に乗った。それはまさしく荒野の旅であった。しかるに上野駅を出てまもなく、彼にホセア書のこの言葉が思い出されて、彼は心に深いなぐさめを得、うなだれた首をあげたということである。(岩波、矢内原忠雄全集第13巻、605頁。)
危急時にホセア書を読み救われた内村鑑三
それゆえ、わたしは彼女をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与えアコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったときエジプトの地から上ってきた日のように。(ホセア書2:16-17 新共同訳。口語訳 2:14-15)。
余(内村鑑三)自身の実験として預言者ホセヤのこの言(ことば)は、余を危急の時に救ったものである。その時余の眼がこの言葉に触れなかったならば、余は確かに滅びたのである。「それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。」と。I will allure her, and bring her into the wilderness, and speak comfortably unto her. と余は英語に由りて読んだ。余はその時それ以上の言葉を読む余裕がなかった。それだけで充分であった。しかしながら35年後の今日に至ってこの預言の全部が徐々として余の実験となって現われたことを認めざるを得ない。余の生涯のすべての幸福はその時に始まったのである。余の天然学、非戦主義、然り余のキリスト再臨論はすべてその時に始まったのである。(岩波、内村鑑三全集24、『聖書之研究』220号。1918/大正7)年11月)
荒野の慰安 ホセア書2章14-23節。
○「彼女をいざなって、荒野に導いて行き」(口語訳)先ずイスラエルを荒野に誘いそこにて慰めの言葉を彼女に語らんと言う。荒野は人なき寂しき所である。故に孤独の状態である。事業の失敗である。名誉の毀損(きそん)である。肉親の死別である。即ち人生の砂漠である。而(しか)して神はその愛する者をかかる所に誘い出してそこに慰安の言を彼等に語り給うのである。人は楽園に在りて人の声に耳を傾けて神に聴かんとしない。然(しか)れどもエリヤの如くに独りホレブの荒野に彷徨(さまよ)いて鮮(あざや)かに神の静かなる細き声を聞取ることが出来るのである。救拯(すくい)の第一歩は荒野の試誘(こころみ)である。そこに我罪を示され、神に接し、神の言を聞いて我等の救拯は始まるのである(14節)。
○信者は荒野において神の慰安の言(ことば)に与(あずか)り、そこに何時(いつ)までも居るのではない、エホバは永久にその民を荒野に置き給わないのである。「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」(詩編30:5)。荒野の滞在は暫時(ざんじ)である。或いは三年、或いは五年、或いは十年にして恩恵の救出が来るのである。しこうして彼所(かしこ)出るや彼はだだちに葡萄園を与え給う。荒野より葡萄園へ悲哀より歓喜へ死海の浜よりシャロンの薔薇(ばら)畑へ試誘を受けて善しとせられし信者は移さるるのである。先ず荒野、しかる後に葡萄園、園が先(さ)きにして野が後ではない。十字架、しかる後にかんむり冠冕(かんむり)である(15節)。(前掲書365頁。)