【聖書箇所】
【説教音声ファイル】
2019年5月19日説教要旨
聖書箇所 レビ記16章20~22節
贖罪の源流
瀬戸 毅義
スケープゴート(scapegoat)という言葉があります。 他人の罪[(失敗などの)責任]を背負うもの、身代わりの意味ですが、本来この語は聖書のレビ記から来ているのです。古代ユダヤで贖(あがな)いの日 (Yom Kippur) に民の罪を負わせて荒野に放した山羊、(レビ記 16: 8-26)、 贖罪(しょくざい)の山羊(やぎ), アザゼル (Azazel) の山羊のこと。
(多数の人命の)全滅, 全焼死; 大虐殺などの意味で使われるホロコースト(holocaust)という言葉はレビ記1:19「燔祭/新共同訳・焼き尽くす捧げ物」が語源です。第2次大戦後、特にユダヤ人は、この語をナチスによるユダヤ人大虐殺の意味で使うようになりました [the H-]。
絵画はW.H.Hunt(1827-1910)の筆になる「贖罪の山羊」(The Scapegoat)です。この絵を書物で見た時の印象は忘れ難いものでした。ハントはこの絵のため現地死海まで赴きました。背景に描かれているのはエドムの山並みです。
W. H. Hunt, The Scapegoat, 1854,
Lady Lever Art Gallery
「やぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。」レビ記の代刑代贖・身代わりの贖罪の記述と儀式は何やら前近代的のように思えます。現代の私たちには抵抗もあるでしょう。しかしここには、古代ユダヤ人の人間の罪に対する鋭い反省と聖なる生活への熱望が読み取れるのではないでしょうか。
聖書の言葉はいかに古く、前近代的のようであっても、聖書の言葉は、聖書の言葉であります。尊い神のことばであります。クリスチャンの生活の規範です。それ故、私たちは御言葉を軽く扱うことはできません。
現代人は各自の罪などということはあまり深刻に考えないのではないでしょうか。昔の人はそうではありませんでした。レビ記の昔はまだキリストの救いはありませんでした。
聖くあるために懸命の努力をしました。神様の前に聖い生活をしようと努力しました。それは神様が聖いお方だからです。周囲の神様を知らない人々と同じ様な生活をしてはならないと神様から命じられたからです。神様の前に聖い生活をしなければ、いつか国民全体がほろびることにもなります。
レビ記 11:45には「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」とあります(Be holy, because I am holy)。
贖罪について少しなりと書きました。しかしこれを頭ではなく心で分かり恩寵の恵みにあずかる人は少ないのではないでしょうか。神は愛なりと聞いて、すぐに分かるように思いますが、頭が悪くて疑い深い私なども、すぐに理解できない中の一人です。罪の赦しはキリスト教の大黒柱です。私達は繰り返し、贖罪について、罪の赦しについて学ばねばなりません。ご一緒にキリストが下さる恵みをいただきましょう。
内村鑑三の若き日の日記
1886年3月8日――私の生涯で非常に重要な日。キリストの贖罪の力が、今日ほど明らかにあらわれた日はなかった。これまで私の心をうちのめしてきたあらゆる困難の解決は、カミの子の十字架のうちにある。キリストが、すべての私の負い目を贖って、堕落前の原人(first man)の純粋と無垢とに私を戻すことができるのだ。イエスのお蔭でカミは私の望むものをなんでも与えてくれるであろう。カミはその栄光のために私を用い、最後には天国で私を救うだろう。* * *
(『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著 鈴木範久訳 2017年 岩波文庫)。
聖書のことば
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである(コリント第2 5:21)。
大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。(ヘブル人への手紙 9:25-28 口語訳)
山羊の角に巻かれた赤いきれの伝説
荒野に放される山羊の角と、またこれを放した岩かどとには赤いきれを巻いておきました。日が経ってそれが色あせて白くなりますと、人々はイザヤ書1章18節の御言葉に該当すると喜びました。「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」。しかし一向にその赤いきれは白くなりませんでした。そんなことが40年続きました。その後、エルサレムは長年積み重なった悪行のために、ローマ軍に攻撃され滅ぼされてしまいました。2頭の山羊の話は、罪からの救いがいかに重大深刻なことであるかを教えています。(山室軍平聖書注解全集3巻 レビ記より。教文館)