2021年12月24日 クリスマスイブ礼拝 説教要旨
聖書箇所 ルカによる福音書2章8節~14節
飼い葉おけの乳飲み子
瀬戸毅義
1978年の12月24日でした。ルイビルの町のとあるキリスト教会に寮の友人と一緒にぶらりと入ったのです。教会の名前は憶えていないのですが、バプテスト教会ではありませんでした。驚いたのは大勢の人で一杯です。晴着を着てみな嬉しそうなのです。明らかに普段はあまり教会にきていないように思わられる若い人もたくさんいます。文字通り立錐の余地もないような状態でおどろきました。キリスト教の社会だなと思いました。
第一次世界大戦中のことです。英国のひとりの皮肉な大佐が日曜日の朝、ある古い村の教会を通り過ぎました。村はその大佐の宿舎に割り当てられていたのです。おりしもミサが終りわずかの人々が教会からでてくるところでした。大佐はその村の司祭をからかってやろうと思い、教会の玄関の扉のところでいいました。
「神父様、今朝のミサは少ないですね、ひどく少ないですよ!」「そうではありません。友よ。君は間違っている」と司祭は答えました。「何千人、何千人! 数万人!だよ」
司祭の心の中にはサンクトゥスの言葉が鳴り響いていたのです。
天使、大天使、天のあまたの天使といっしょに、私たちはあなたの栄光の名前を讃美し褒めたたえます。これまで以上に、あなた様を讃美申しあげます。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ(イザヤ書6:3 口語訳)。いと高き者よ、あなたによってわたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名をほめ歌います(詩編9:2)。(ジェームズ・W・コックス教授の説教)。私たちの教会のクリスマス礼拝も同じだと思います。
耶蘇(イエス)・キリストは世界の救い主(メシア)と言われるお方です。イエス・キリストはユダヤ人(Jew)でした。ユダヤ人は苦難の民族であります。イエスがお生まれになった頃はローマ帝国の支配下にありました。紀元前63年にローマのポンぺイ将軍がエルサレムに侵入しました。以来ユダヤ人はローマ帝国に任命されたその地域を預かる分封主(local vassal kings)により治められるか、またはローマ皇帝任命の支配者(governor)によって治められました。イエスが誕生された時はヘロデ大王(Herod the Great)がその任にありました。イエスが誕生なさるずっと前はペルシャの国が支配していました(Persian Period 450~330 B.C.)。そのあとはアレキサンダー大王(Alexsander the great)やシリアのアンチオカス 4世 エピファネス(AntiochusIV Epiphanes)の時代、(Rule of the Seleucids of Syria 198-160 B.C.)が続きました。特にシリアのアンチオカスの時代は苦しめられ弾圧されました。このようにユダヤ人は苦難の民族でありましたから、救い主(メシア)を待ち望む理由がありました。そのお方が来れば正しい政治が行われ、苦難から解放されるのです。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである(ルカ2:11)とあるのはそういう背景がありました。その待ちに待った救い主はどこにお生まれになりましたか。
お生まれになったところはひなびた田舎の家畜小屋の飼い葉おけのなかでした。何とびっくりするではありませんか。当時の大国ローマ帝国のシーザー皇帝の大宮殿の豪華な寝台でお生まれになったのなら納得できます。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:12-14)
ここに平和とあります。当時はローマの平和と言われる時代でした。Pax Romana, Roman Peaceです。しかしその平和は飼い葉おけの中の乳飲み子に見る平和とは大きな違います。コントラストがあります。このお方こそ世界の救い主であるというのです。まさに驚天動地の出来事、あっと驚くような救い主の誕生でありました。平和(ギリシャ語 アイレーネー)は明治訳では「地には平安(おだやか)人には恩澤(めぐみ)あれ」となっています。この平和・平安は、地上の泰平無事の意味ではなく信仰的の意味なのです。
聖書に「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:30-31)とあります。
みなさんもキリスト様にすべてをお委ねなさって、真の救いを得られますようにお祈り申し上げます。
短 言
聖 誕 節
花は消え、鳥は去り、森はその衣を褫(は)がれて天然は裸躰となれり。唯見る夜毎に昴宿(ぼうしゅく)の剣を帯びて粛然として頭上に輝くを、これ神の子が世に臨むの期節(とき)なり、世は冷淡を極め、心に虚飾絶え、只威力の我らの頭上に剣を揮うの時、キリストは我らの心に臨み給ふ、今は救拯(きゅうじょう)の時期なり、世界の人、心を静かにして彼を迎えよ。(『聖書之研究』1903(明治36)年11月)
昴宿:ぼうしゅく「すばる」の漢名。
ベツレヘムの夕
百万の貔貅(ひきゅう)辺塞(へんさい)を戍(まも)り、シーザーの宮殿に絃声高くして驍勇恩賞に誇りし時、神は其子をベツレヘムの丘上、牛羊、槽中に其食を探ぐる所に下し給いて人類救済の途を開き給えり、革新の世にの臨むや常に此の如し、世は挙て之を帝王と軍隊とに待ち望む時に.神は貧児を茅屋(ぼうおく)の下に降して、世に新紀元を開き給う、今や復たび革新の声高し、我らをして東方の博士に傚(なら)い、我らの救主を求めんが為めにロマに行かずしてベツレヘムに詣(いた)らしめよ。(『聖書之研究』1903(明治36)年11月)
貔貅:猛獣の名。昔、ならして戦争に用いた。 勇猛な軍隊・将卒のたとえ。 辺塞:国境にあって異民族を防ぐとりで。国境。 茅屋:かやぶきの家。あばらや。