【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年2月24日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書25章1節~13節
10人のおとめのたとえ
梅木 光男
1月に引き続きマタイ福音書25章から神の国の例えシリーズの「10人のおとめ」を取り上げました。
ここの箇所は主イエスが十字架で処刑される直前の弟子たちに語られたメッセージで非常にわかり易い箇所ですが、内容はとても単純でありながら我々の心情から見れば誤解する恐れがあります。
ここでは「5人の賢いおとめ」と「5人の愚かなおとめ」が登場しています。場面の設定は花婿を迎えるシーンです。主イエスは花婿であり、我々はその祝宴に与るひとりです。しかし、その花婿の到来の日時は誰一人窺い知ることができない神の奥義なのです。今日の箇所でも夜を想定して彼女らは「たいまつ」を用意していました。唯一違うのは「壷に油を用意していたかどうか」です。
聖書は花婿の到来が遅れ真夜中になって彼女らは眠りこけ、叫び声で目が覚めたと記しています。ところが始めに用意していたたいまつの火が消えそうになり、愚かな5人のおとめたちは賢いおとめに壷に入っている油を分けて欲しいと懇願するが、冷静な?5人のおとめたちにやんわりと断られることになります。
そこで慌てて店に買いにいくと、既に祝宴が始まって戸が閉められ、主人からまさに「門前払い」の憂き目に会い叱責されることとなります。このような時我々はつい5人の賢い乙女たちに「恨み言」を言いたくなります。何故私たちに分けてくれないの?友達なのに!等々。実はここにこの問題の核心があります。
信仰は主イエスに対する万全な用意と心配りが要求されます。自分勝手な思い込みや他人に分けてもらうようなものではなく、主イエスと私という一対一の関係なのです。決して他の人から助けや分けてもらうものではないのです。それが親子や夫婦であっても。
主イエスの再臨のときは誰も知らない。ただ父だけがご存知なのだと主イエスは繰り返し宣言されています、だから「目を覚ましていなさい」と何度も何度も強調されているのです。なぜなら「戸が閉まられるときが来る」しかし我々はその時を知らないから。