【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2026年6月7日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書 16章24~28節
自分の十字架を背負って
原田 寛
イエスは、ペトロの信仰告白に対して「幸いだ」という言葉で応じられた。その後、イエスは、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」ことを言い表します。まさに、それは、主イエスの生涯の終わりを指していた。そして、弟子たちに、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命じられた。
「自分の十字架」とは何か。それは、「イエス・キリストにある自分自身」である。
私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって罪赦され、贖われて、神の民に加えられた。キリストは、父なる神の命を受けて、このことを実現するために人となられ十字架を背負ったのである。イエスが言われた「自分の十字架を背負って」とは、イエスと同様に神の御旨によって自分自身が背負うべき十字架があるという意味にとれる。
多くの書簡を残したパウロは、その書簡の中には「自分の十字架を背負う」という言葉は述べていないが、主イエス・キリストを信じるゆえに負っているキリスト教会への責任の重さが伝わってくるし、その主にある人生を通してイエスの十字架の死と復活を伝えていることがわかる。
使徒言行録9章15-16では、主はパウロの選びにおいて「…わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」とパウロの背負う十字架を表している。パウロは、イエスがアナニアに告げたように歩んでいくのである。しかし、それは、パウロにおいては、フィリピ4章10節以下にあるように「わたしを強めてくださる方のお陰…」といえることが多分にあるのだ。 そして、信じることの先には、永遠の命と共に神の国の栄誉に預かるという恵みがある。
私たちも「自分の背負っている十字架」について語ることができる。もうすでに、主に出会ってここまできたのだから。
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