【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2026年1月18日説教要旨
聖書箇所 ヘブライ人への手紙12章4節~6節
罪ある儘でークリスチャンの生活と戦い
瀬戸 義毅
主の2026年の第3の主日の礼拝です。皆さんはどのように新年を迎えましたか。キリスト者には日々の時間は神からいただく感謝の時間です。厄年という言葉もありますが、厄年は、古代中国の陰陽道(おんみょうどう)に由来している風習です。聖書から出たものではありません。神を信じるものには忌み嫌うべき月日や年などは存在しません。毎日が祝福です。
今日の聖書個所はヘブライ人への手紙からです。4節に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」とあります。キリスト者になれば、有徳者となり、罪も犯さない人になるとの誤解があります。キリスト者になっても罪は依然としてあるので、日々の戦いが必要です。まさに「生きることは戦うこと」(vivere est militare)です。
パウロも告白しています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。 何とかして捕らえようと努めているのです。」(フィリピ3章12節)人間の見方に、性善説、性悪説がありますが、性悪説が真実だと思います。「正しい者はいない。一人もいない。ユダヤ人もギリシア人も(全世界の人々は)皆、罪の下にあるのです。」聖書の言葉は万人は罪ある存在だと主張します。
ヘブライ人への手紙は西暦60年から70年の間に書かれました。書簡の宛先人はユダヤキリスト者です。周囲の社会にはキリスト者にたいする猛烈な迫害がありました。信仰の未熟な者は元のユダヤ教に戻ろうとしました。11章に旧約聖書の偉大な模範の信仰者を挙げているのはそのような信仰者を励ますためです。「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(12章1節)。
罪の性質をよく示しているのが次の言葉です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7章15節)太宰治(1909—1948)の小説『父』 はそれを教える一例です。主人公は聖書のアブラハムのイサク奉献の個所に心を動かされました。また子供の頃は佐倉惣五郎の講談を聞き涙しました。
ところが結婚し父親になりますと酒におぼれ女性関係も乱れます。お金もすべて自分が使い妻には渡しません。主人公はそういう自分を嫌悪するのですが改めることができません。そいうお話です。彼の小説『人間失格』の中に「罪」のアントニム(反意語)は「罰」かもしれないというところがあります。学生時代に佐古純一郎の話を聞きました。太宰治は「罪」の反意語(アントニム)は罰ではなく「救い」であることを知らなかったのです。自己の罪がいかに深くとも、罪の反意語は救いです。キリストの救いは私達罪人のためでした。このことを忘れてはなりません。
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