【聖書箇所朗読】
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2026年5月3日説教要旨
聖書箇所 コリントの信徒への手紙 Ⅰ 1章18節
十字架の言葉は神の力
原田 寛
「十字架」は、ローマ帝国が採用していた処刑の道具であり、犯罪者を心身ともに徹底的に苦しめるものである。したがって、信仰の対象ではない。しかし、多くのキリスト教会は、十字架をかかげているし、「十字架」という言葉を頻繁に使用してきた。それは、神のみ子イエス・キリストがすべての人の罪を背負って「十字架」に着けられて死んでくださったからである。これは、私たちの信仰の最も重要な事柄の一つである。
パウロが「十字架は」ではなく「十字架の言葉は」と記す意味が考えたい。
パウロは、「十字架の言葉」について、「愚かさ」と「神の力」という事柄で説明する。人が十字架に処刑されるということは、この世に在って大罪を犯して裁かれ処刑されるか、或いは、権力者との敵対し、その果てに十字架刑を被るということである。それは、人としての「愚かさ」であるし、「弱さ」ということになろう。多くの人にとって「十字架の言葉」は、「愚かさ」や「弱さ」と映るのである。
しかし、パウロは、「十字架の言葉」は、「救われる者には神の力」であると宣言する。主イエスは、ご自身は罪を犯されなかったが、罪のために十字架を背負われ死なれたからだ。それは、すべての人のために担われたことだ。そして、神は、主イエスを死んで三日目に復活させたのだ。そして、それは、救われる人の初穂としての復活だ。復活は、神の業である。
わたしたちは、「十字架の言葉」について考えていきたい。それは、それは、救いに預かる者の神の力である。キリスト教会は、ペンテコステ以来、この証を表し続けてきた。
これからも同様にして歩もう。
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