【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2026年8月9日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書12章15~21節
見よ、主イエスを
原田 寛
出エジプト20章8~11節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・・」
十戒の中に記されている「安息日」についての戒めである。重要な戒律のひとつだが、新約聖書の時代、口伝律法(「タルムード」や「ミシュナ」と言われている)のひろがり、「安息日」には仕事をしないということに留まらず、仕事に結びつく行為を避けることが求めれていた。新約聖書において麦の穂を摘むこと、物を運ぶこと、病人を癒やすことが論争になっているが、口伝律法の細かな運用が背景にあったと考えられる。これは、安息日が軽く扱われていたのではなく、むしろ非常に厳格に守ろうとしていたことをうかがえる。
12章9節以下に、その前イエスが安息日に手の萎えた人を癒した際、「安息日に善いことをするのは許されている」と言われた。ファリサイ派の人々は、このイエスに殺意を抱いた。
この出来事に続く今朝の箇所は、主イエスについてのイザヤの預言の言葉(イザヤ42章1-4節)である。
安息日を遵守することは、ユダヤ教の律法の下にあったユダヤ人において明白なことだったが、その守り方の中で、取り残されていく者、忘れられる者、外に追い出される者がいた。主イエスは、そのような小さな者たちに目を留められ、癒しや奇跡、そして、語られる福音を通して、神の愛を示されるのだ。多くの人は、主イエスに救われた。
「見よ、私の選んだ僕」は、小さき者を癒し支え導き、福音を伝える主イエスのことだ。この方が、すべての人を罪から贖いだすために十字架にかかって死んで下さったのだ。すべてという時、ひとりひとりは部外者ではない。「彼は異邦人に正義を知らせる」私たちも、御言葉により主の前に見出された。そして、主の教えの下で小さな者、小さくされてきた者たちに目を開かれてきた。そうだ、小さき者に見出される方こそ、正義を行われる方なのだ。
「見よ、主イエスを」…すべての人々にその十字架の死において神の愛を示された。神の愛は、世界のすべての人に届く。どのような人にも届く。どんな小さな者にも届くのだ。ここにいる自分にも届いている。
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