【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2026年11月1日説教要旨
聖書箇所 ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節
信仰によって義とされる
原田 寛
昨日は「宗教改革記念日」でした。1517年10月31日にマルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城の門に「95箇条の提題」を掲げた日でした。教会の権威や慣習でなく「聖書と信仰」を重視すべきだとする考え方が表明された日である。バプテスト教会は、その約100年後、ロンドンで信仰告白を表して始まった。聖書主義、幼児洗礼の否定、政教分離など、今日のバプテストの土台が形成された。
今朝は、ルターが示した「聖書と信仰」に関わる重要な聖書個所を読んでいる。もともとユダヤ教では、信仰と律法順守が結びついていた。神と共にいるから律法を守るという考え方で、人々の生活は律法と深く関わっていた。
パウロは、「律法の実行ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされると知って、キリスト・イエスを信じました」という。そして、「律法に対しては律法によって死んだのです」と説明する。律法は人を罪に定める。パウロは、その定めを受けた者であり、「キリストと共に十字架につけられています」と続ける。そして、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内で生きているのです。」という。キリストの十字架を贖罪の小羊のように多くの人の身代わりにと説明する場合があるのかもしれないが、パウロは、この十字架に着けられた方の側に身を置いている。だから、続く言葉がこれを聞く人々の心を響くのだ。
人は、「信じる」という言葉に、自身の実存がかかっていると理解している。「信じる」ことは、苦難→忍耐→練達→希望(ローマ5章3-5節)を理解するし経験する。信仰による祈りで、あらゆる人知を超える神の平和が祈る者を守る(フィリピ4章6-7節)。アブラハムは、神の召し(創世記12章1節以下)を信じて応え、父母と共にいる地を後にして神の示す地に向かった。そして、モーセも、ダビデも、イザヤも、約束のキリストも生まれたのだ。
パウロは、「信仰の生きているのはもはや…」という。それは、その信仰に神の恵みが現わされ祝福されるからだ。そしてその行き着くところは、復活であり神の国の恵みにあずかることなのだ。
信仰者の歩みは、アブラハムにはじまったように、今もはじまっている。
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